盛岡タイムス Web News 2015年  7月 2日 (木)

       

■  〈風の筆〉107 沢村澄子「過ぎゆく時にさわる」


 父が心臓手術をしてアブナイというので呼び寄せられたはずなのに、その小康が確認できるや、わたしは熊野古道を歩きに出た。

  その話は先週で終わったのだが、実は今回、熊野古道の前に高野山も訪ねた。

  話をさらにさかのぼると、20代の後半から20年くらい、わたしは大阪の実家に帰っていなかった。それにはそれ相応の事情があったのだが、数年前、夢枕に「高野山」「高野山」と告げられる気がし、また、誰かが死ぬんじゃないか、それは父ではないかと想像され、このまま別れては後生後悔するような気がして、ついに帰ったのである。20数年ぶりにわたしの顔を見た母の第一声は、「なんや!そのうっとうしい髪の毛!切るか縛るかしィ!」だったけれども。

  案の定、父は動脈瘤を破裂させ、入退院を繰り返していた。しかし一方、なぜ「高野山」とお告げが来たのかそれが不思議で、わたしの高野山体験といえば、小学5年生の時の林間学校くらいしかなかったから。

  ところが、驚くことに、わたしが実家と断絶していた20年のうちに、父の父、わたしの祖父が亡くなっており、その遺言で墓が高野山に移されていたのだ。

  もともと、父の家は紀伊半島の真ん中の山中にあり、民家わずか数軒の集落に墓もあった。それをそこから高野山に移し、さらにまた、大阪へ移したという。

  「墓ってそんなに簡単に移してええの?」と尋ねると、「お母さん、もう年やさかい、大阪からあんな遠い高野山まで、毎月、花、供えに行くのいやや。冬は雪が降るし」と母は言う。「そやけど寺はもうけたで。払った永代使用料は少しも返ってけえへんし、もう一回あの墓地売るんやろし」と。

  大阪の寺で、引っ越し続きだった墓の前に立ってみると、何だか呼ばれた理由も分かるような気がした。が、20年の歳月が流れたというのに、相も変わらずここで起こっていることにわたしはまず同調することができない。向こうから見ても「スミチャンは変わった子」「困った子」であることに変わりはなく。

  メーンストリートにではなかったが、奥の院の脇の方にその場所はあった。花など供えなくても、誰か彼か、日々大人数がここを訪ねて来るのだ。末々まで寂しくはなかったろうに。

  信長の墓もあり、光秀も政宗もおり、諸々呉越同舟。あちらでは皆和気あいあいと暮らしてるんじゃないかと思うと、ここでもよかったんだよと、ヘンな子・スミチャンは思ったが、いずれ、時既に遅し。また、わたしの入る墓でもない。

  さらに今回は、熊野古道を歩いた後、レンタカーを借りて、その山中にある、昨年ついに人手に渡った父の生家、また、海辺の国道沿いにあり、既に無人となっていた母の生家も見に行った。父や母や妹たちは毎年帰っていたらしいが、わたしには29年ぶりの帰郷。

  「ホンマ、ヘンなことする子や」と母が言った。「なんでそんなことするん?」本心から不思議がっているその母に向かって、「過ぎていく時にさわってみたかった」とは言えなかった。

  翌日、わたしは父と二人で大阪の墓に参ったが、父はもうほとんど歩けず。
     (盛岡市、書家)


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