盛岡タイムス Web News 2015年  7月 9日 (木)

       

■  〈風の筆〉108 沢村澄子 歯石を取る


 久しぶりに歯医者さんに行って、歯石を取ってもらった。しかし、お千代さんの歌ではないけれど、人生いろいろ。歯医者さんもいろいろ。歯科衛生士さんもいろいろ。で、一口に歯石を取るといっても、それもまたいろいろなのである。

  極端なところでは、わずか数十秒、機械でちょちょちょと触ったくらいのところもあったし、その逆、口を開かせるための器具をはめ、わたしのあごが外れるまで徹底的に取ってくれたところもあった。

  昔通っていた歯医者さんで、歯石を取ったら歯が抜けたという人はいないのか、と聞いたら、「いますよ。たまにそんな方がいらっしゃいます」という返事。子はかすがい、というけれど、歯石が同様の役割を果たすこともあるのだろうか。いずれ、たまに取ってもらうと、確かに口内も気分も爽快になる歯石ではある。

  先日、書をするA先生から電話があって、「B先生の書がダメだ」と聞いた。どうダメなのかを質問すると、要約すれば「書法だから」。これは、習い覚えた表現という衣≠見せられてもしょうがない、という意味らしいのだが、この話を聞きながら、わたしは歯石を取ったら歯が抜けた人を思い出してしまった。

  B先生の作品を頭に思い浮かべつつ、どこが歯で、どこが歯茎でどこが歯石か、わたしにはよく分からない。いや、これはウソである。その分別はできる。しかし、それらが既に一体となって機能していることなのであろうから、正確には、それのどこまでがその人の本質で、ここからが表現だと分け切ることはできないと思うのだ。歯石を取って歯が抜け落ちることがあるのと同様、B先生からあの技術を取り除いたら書が成立しなくなる、という危惧も。

  そもそも、わたしはB先生の裸を見たことがない。いつも拝見するのは服を着たお姿である。つまり、その衣装から受けるイメージも含めてのB先生像なのだから、書もやはりそんなもの。常に表現付き、ではないかとも思うのだけれど。

  どこまでが本当でどこからがウソだなんてことも本来分別無理であろうし、ウソは大きいほど面白いようなところもあるし、しかし、だからこそか、作家たちは日々純化を試みる。まるで歯石を取るかのよう。

  しかし、口をあんぐり開けたあられもない姿で所在なく、まな板のコイ同様に横たわっていると、次々得体の知れない妄想(もうそう)が浮かぶ。そうだなぁ…。歯石を何十年もため、むくむく成長させて鍾乳洞みたいにし、そのままオブジェにしたら、それはそれで面白いかな、とか…。先生に知れたらきっと叱られると思うけど。

  ところで、今通っている歯医者さんに、こんな掲示があった。その診療所の治療目的なのだそうだ。

  「お口の痛みと不快感を取り除くこと。お口がいつまでも衛生的に保たれること。歯を支えている歯茎を強くすること。気持ちよく噛めるお口にすること。すてきな笑顔を創りだすこと」

  真摯(しんし)な先生のその明るい笑顔を見ながら、文中の「口」や「歯」という単語を「世」や「心」に置き換え、そこに尽力する人もいてくれれば…と願われたが、いや違う。まずは自分だ。自分のできることを。それで、今夜もまず歯ブラシをゆるゆると握った(ぎゅっと強く握らない方がいいのは筆も同じ。もしかしたら、人も)。
   (盛岡市、書家)


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