盛岡タイムス Web News 2015年  7月 12日 (日)

       

■  〈もりおかの残像〉119回 東北高等女学校(番外編)新渡戸稲造邸 澤田昭博


     
  写真@:「新渡戸稲造邸の玄関付近」写真提供:盛岡市先人記念館  
  写真@:「新渡戸稲造邸の玄関付近」写真提供:盛岡市先人記念館
 

 ■新渡戸邸内を知る原体験

  これまで、新渡戸稲造が東北高等女学校で4年連続講演をし、その講演内容が校友会誌『なでしこ』に掲載されていたこと、山辺英太郎教頭の妻(文子)が稲造のめいであったことなど述べてきました。

  東北高女の取材で元白百合学園教諭の荒井信子さん(87)の自宅を訪れた時のことです。あいさつもそこそこに「私は新渡戸邸の話だったら、いくらでもできますよ。本当に、驚きの連続だったから」といきなり不可思議な体験談を始めました。女学校の歴史や思い出など取材したい旨事前に電話したはずでしたが、何か勘違いされておられるのかなと思いつつ話に引き込まれます。

  財団法人新渡戸基金事務局長の藤井茂さん(66)にこの話をすると、「新渡戸邸に実際に住み、邸宅内の様子を語ることのできる方は稲造の孫である加藤武子さん(95)と、荒井信子さんの二人ぐらいではないでしょうか」と言われました。そこできょうの残像は盛岡ではなく、番外編として東京府小石川区小日向臺町1の75に、東京大空襲で焼失するまで存在した新渡戸稲造邸にスポットを当てます。

  ■新渡戸邸の庭園と部屋数26の間取り

     
  写真A「新渡戸家新築の平面図」資料提供:盛岡市先人記念館  
  写真A「新渡戸家新築の平面図」資料提供:盛岡市先人記念館
 


  荒井さんは昭和19年3月東北高女を卒業し、速記者などなにか資格を取得しようと東京へ進学希望していました。東京から27歳の若さで赴任した海老原校長は東京の女子教育事情に明るく、荒井さんにまず家庭科学学寮(井上秀所長、日本女子會吉岡彌生館長)で学ぶことを薦められ、上京し入学します。この家庭科学学寮には全国から30人ほどが集い、寮がなんと小石川区(現文京区)小日向臺の新渡戸稲造邸写真@、通称ニトベハウスだったのです。

  藤井さんは、「昭和8年に稲造は亡くなっており、戦中戦後間もない頃の新渡戸家は養女の琴子さんなど限られています。安全のため寮として貸し出すことで、屋敷の維持管理にも好都合だったのでしょう」と推測します。

  ニトベハウスの写真と新築時の平面図写真Aは、盛岡先人記念館の新渡戸稲造記念室にあります。精密に描かれた縮尺100分の1の設計図を見ても、大小あまりに部屋数が多く数えきれません。荒井さんと図面を見ながらお聞きしました。まず、邸宅の入り口にある車庫が当時珍しかったといいます。1階にはホール、パーラー(客間)、食堂、台所とパントリー(食器室)、書斎と書庫、リビングルーム、応接間、このほか茶室、召し使い部屋、蔵、電話室、土間、手洗い場に便所、湯殿は別に日本風のものまであります。2階は寝室が主で5部屋、書斎、サンルーム、女中部屋が4部屋、2階にも湯殿が三つあります。その数大小26部屋といわれます。荒井さんたち20人の寮は、二階の畳部屋で共同生活をしました。暖炉の前に国際連盟の事務次長時代に使用していた黒い肘掛け椅子のある居間の写真も残っています。豪華すぎるほど大きな家に住んでいてぜいたくすぎると言われても仕方ありません。

  新渡戸邸の庭園には池があり、濁ってはいましたがコイが泳ぎカエルが鳴き、アヤメやツツジの花も印象的でした。また、庭には10人は入る大きな防空壕もあり、実際逃げ込みました。古井戸のそばには大きな石灯籠があり、空襲で逃げた時、誰かがつまずいたことを覚えています。玄関に下足箱はありません。土足で出入りします。玄関からホールに入ると、稲造と萬里夫人の肖像写真が飾ってありましたが、途中から萬里夫人の写真は取り外されました。部屋の壁面は木の彫刻が施され、家具類は一切ありません。

  新渡戸稲造は、このほかにも7、8月の夏は避暑地軽井沢の別荘で、1、2月は避寒地鎌倉の別荘でそれぞれ過ごしていたと藤井さんは補足してくれました。

  ■魔法の2部屋から地下道を探検

  戦前の小日向臺は山手の代表的な住宅地で、大邸宅が目立ちました。山手台地に属し、小高い所にあった新渡戸邸からの眺望は最高です。2階から富士山がきれいに見え、岩手山の方が美しいと山梨出身の寮生と口論します。空襲で神田の街並みが焼けたときも、すっかり見えました。

  摩訶不思議なのはここからです。ここに住む管理人のおじさんとおばさんから、魔法の部屋の仕掛けを教えられます。お掃除の時、大きな部屋に入る際ドアノブがあり、入ると内側にノブはありません。みんなで「どうしょう?」と慌てます。どこかの壁をさすることで開くという忍者屋敷です。また、どこかを動かすことで1畳ほどの床がギーと音を立てスライドし、地下へ続く階段が現れます。若い女学生たちは時々「探検しよう!」と地下道へ潜り込みます。トンネルは途中から二股に分かれ、一方は隣にあるお寺の墓のなかにある空の墓石へ、もう一方は庭の空井戸へつながっていました。おじさんは「暗殺を避けるために仕掛けてある」と教えてくれました。トンネル内は意外と乾燥しておりムカデやゲジゲジと出くわし、クモの巣が髪にくっつき、足が汚れるため3度くらいでやめました。

  新渡戸生誕150周年に合わせ、藤井さんは『新渡戸稲造75話』正続2冊を出版し、朝日新聞の「ひと」欄に掲載され、全国紙だけにその反響は大きかったといいます。その150話の中に、稲造は普段鍵を掛けない癖があるそうで、昭和4年1月の深夜泥棒が入り押し問答の末帰らせた話、昭和7年血気盛んな男数人がやって来て稲造に会わせろとの談判に、たまたま山形からやってきた佐藤法亮尼僧が稲造を風呂に隠し事なきを得た逸話が載っています。このころ知識人や文化人などを「一人一殺」で狙う集団があったのも事実だと藤井さんは語ります。

     
  写真B「盛岡市先人記念館へ移設された石灯籠」:筆者撮影  
  写真B「盛岡市先人記念館へ移設された石灯籠」:筆者撮影
 


  ■旧新渡戸邸でただ一つの残映

  空襲は激しさを増し食糧も尽きはじめ、それぞれ家に戻るよう言われ帰盛しました。両親へ手紙であらかじめ遺書を書き送っていたため、帰宅後母に泣かれたといいます。

  空襲で立派なお屋敷は焼失しました。新渡戸邸においてきた荒井さんの荷物も、すべて焼かれてしまいました。

  焼け跡にただひとつ、高さ1・7b、幅1・3bの灯籠だけは残りました。新渡戸邸ゆかりの石灯籠写真Bが、いま盛岡市先人記念館の正門から入り口に向かって右手の庭にあります。御遺族加藤武子さんから平成8年盛岡市に寄贈されました。写真Bに写っている建物部分が新渡戸記念室です。

  藤井さんが旧邸宅跡地を訪れた時、面影は全くなかったといいます。もし戦災を免れていれば、愛知県犬山市の明治村に新渡戸邸は移築保存されていたかもしれません。


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