盛岡タイムス Web News 2015年  8月 3日 (月)

       

■  国道4号の「カッソーロ」 西見前に米機発着 教育会館は軍政部 戦後70年 不来方の星条旗A


     
  滑走路に使われた現在の西見前の国道4号を見る長澤さん  
  滑走路に使われた現在の西見前の国道4号を見る長澤さん
 

 米軍は1945年9月15日、盛岡八幡宮の秋祭りのさなかに進駐を開始した。エドワード・ラーティ大佐率いる米陸軍落下傘歩兵52連隊約2千人が列車で到着、トラックに分乗して、岩手大工学部の前身の盛岡工業専門学校の校舎に進駐した。その後は盛岡市大通1丁目の旧・岩手教育会館に軍政部を置き、県や市町村などの行政府を通じて、本県を統治した。空挺部隊は軍規が厳しくトラブルは少なかったが、占領軍は物量にものを言わせ、県民の暮らしに踏み込んできた。(鎌田大介)

  現在の岩手教育会館は1965年建築の建物を解体し、2018年には3代目の建物が完成する。現会館の前にあった旧会館は1936年、岩手県教育会が建設した。進駐軍は向かい側にあった武徳殿とともに51年まで軍政部として接収した。

  戦後、現会館を根城に岩教組で活動した盛岡市の藤原良雄さん(81)は、建物の代替わりに歳月を実感している。

  軍政部時代について、「あまり鮮明な思い出はないが、広場があってそこでソフトボールをしている米軍を見ていた。昭和21、22年は紫波の古館にいて中学生だった。私たちは、米軍はとんでもないやつら、鬼畜米英と教えられた。ところが日本に来た彼らは格好が良く、鬼畜のイメージではない。進駐軍特別列車があって、古館は駅でなく信号所だったから、よく臨時停車していた。私たちが行くとチョコを投げてくれた。今まで憎らしいと思っていたのに、もらいに行ったのは食料のない、哀れな少年の姿だった。イメージはがらりと変わった」。

  終戦直後の世相を物語る「ギブ・ミー・チョコレート」は、本県でも日常の光景となった。藤原さんと活動をともにした同市の大沼勝雄さん(82)は、「国道4号の近くで彼らを見ると、運転手の行儀や態度が悪くて怖かったが、車が停まると寄っていく。ガキ大将が止めに入っても、みんなもらってしまうので、結局は自分ももらってしまう」。

  盛岡市西見前の国道4号は、北日本銀行見前支店から南に約350bを米軍が滑走路にした。見前農協創立40周年記念誌によると、「10月なかば米軍飛行機が飛来し、初めて滑走路に降りた。青い目のアメリカ兵など戦争中も見ることのなかった村人たちはただ恐れおののいた。(中略)飛行機は1週間に1度ぐらい飛んできて、和野のムトウ酒店前で待っていたジープが、盛岡公園下のアメリカ軍政部や上田の落下傘部隊に向けて、連絡に走った。滑走路を使うときは国道は縄を張って通行禁止となり、着陸した飛行機は再び離陸するまで国道のかたわらに置かれた。この間、MPや警察官が厳重な見張りをした」。

  機体は米陸軍の連絡機「スチンソンO─62L5センチネル」と思われる。乗員3人、最高速度210`、航続距離680`。短距離離着陸性能でヘリコプター的な機能を果たした。当時の国道4号は中央部だけコンクリート舗装され、米軍は直線部分に目を付けた。

  同市西見前の長澤稔さん(78)は当時、見前小学校の2年生だった。「朝に進駐軍が家の中に土足で入って来て、いろりのそばにいた記憶がある。飛行機が停まるとき車(の通行)をストップさせても、最高10台くらい。車を1時間以上止めてもそんなもの。飛行機が降りるため邪魔になるので松並木は全部払い、家の北側のスギを切らせられた記憶がある。国道にはペンキでMORIOKAとローマ字で書き、吹き流しを立てたりしていた」。

  今では市街地の幹線道路になってしまったが、年配者たちは長らく国道を「カッソーロ」と呼んでいた。主権回復後の1954年まで離着陸は続けられ、最後の機影を見送り、住民はやっと終戦を実感したという。


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