盛岡タイムス Web News 2015年  8月 27日 (木)

       

■  〈風の筆〉115 沢村澄子 「墓前の花」


 盆過ぎて、秋の近づきを感じる身はかつてなかったほど寂しくて、いよいよ年をとったのかしらなんて思っていたら、鎌倉の額屋さんから「日は短くなってきているし、感じる風も心なしか先日までのそれとは違うよう。夜には虫の音も聞こえてきて、切ないやらキツいやら、夏の終わりはイヤです」というメールが。その翌日には「きのうの朝は仙台も、枝々がちらちら光りながら潮騒のような音を立てていて、お盆過ぎると秋が来るというのは本当」だと。2人とも男性。彼らのことや、江ノ電、海、定禅寺通りの欅並木などを思い出しながら、西行の歌も。

  おしなべて
  ものを思はぬ人にさへ
心をつくる秋のはつかぜ (新古今集)

  ところで、盆明けの井戸端会議でのある奥さんの話。

  「4時、5時みたいな早くに墓参りに行くとダメ。あんまり早くて人けがないと供えた花が抜かれてまた売られるの」「えぇ…」「本当サ。10時くらいに親戚が行っても、ないの。安くしてまた売ってんの」「え〜」。

  ちょっと信じ難い話に一同絶句の中、奥さんの報告はいよいよ詳しくなる。

  ところが、それを聞いてるうちに段々おかしくなってきて、「そこまでやられれば、仏さんも、神さんでも、『まぁ、頑張って生きろや』って笑ってんじゃないですか。いやぁ、本当に生きる者の世界ですもんね」と言ったところ、もう一人の奥さんに怒られた。「何言ってんだい!墓の花を盗むなんて、世も末じゃないか!」。

  そうか、そうか、世も末かと、その日からわたしは世の末について考えている。しかし、一人考えてても寂しいので、30歳の仕事仲間に話してみたら、「分かりますよ」とあっさり。わたしが「?」という顔になったのだろう、「世も末だという意見も、沢村さんの考えも」と続いた。しかし、そう言われてもガゼンわたしは分からないままで、その瞬間、随分昔のことを思い出した。

  20代後半からのしばらくを、わたしは大学に勤めた。教えるったって自身が迷いのどん底で、一体何を教えられようかというある日、一人の学生に「欲はいいものなのかな。悪いものなのかな」と尋ねると、彼は「いい欲と悪い欲があるんじゃないですか」と答えた。秋田の寺の息子だった。

  その時、「そう(なのね)」と返事したけれども、実はそれから20年たった今もわたしは合点していない。このふに落ちない感が、今回「分かる」と言われて生じた「何が?」に似ている。

  そんなに分かればいいけれど。そんなにスッキリと。

  わたしが心底「この期に及んで」と思ったのは、あの震災の時だ。数々の美談、前向きな報道の陰で、のたうち、うごめく、人間の業、利己、強欲…。それらに直面するたび、言葉を失った。

  しかし、おかげで人間の本質に少し近づけたような気もする。墓前の花ばかりではない、お互い、さまざまなものを、目に見えづらいものまで、奪い合って生きているではないか、わたしたちは。例えば、時間。例えば、希望。例えば、愛。さらには、あしたの平安だって。

  いずれ、ものを思う思わざるにかかわらず、今年も万人に秋は来て、たとえ末だと叫ばれようが、この世は続く。さぁ、残りの時間、何を語ろう、何を愛そう、何に尽くそう。そしてわたしは、一体何を奪うのか。
(盛岡市、書家)


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