盛岡タイムス Web News 2016年  6月 20日 (月)

       

■  〈幸遊記〉284 照井顕 駒幸夫の国連への駒進め


 「以前お会いした、片山秀光和尚のことをインターネットで見たら、カッサパ音楽のことを書いた盛岡タイムスの記事が出てきまして、電話をしました。駒と申します!6月5日に盛岡へ行って肴町で正午から午後4時までイベントしますのでよかったら来てください!」と電話だった。この日は女房・小春の孫1歳の誕生日、昼に祝いのお赤飯を食べてから肴町へ。

  サングラスをかけて三味線を弾き、アメリカンポップスのカラオケに合わせて歌う、駒幸夫さんの震災復興支援ライブであった。彼は釜石出身の歌手で現在はアメリカ在住。三味線の吉田兄弟が出てきた頃、駒さんも三味線ミュージシャン・うたう駒幸夫として再デビュー、ウィスコンシン大学で演奏した時、学会から声を掛けられ8千人のコンベンションで演奏。さらに国連の学校で教えてもらえないかと言われ、2006年渡米。あらゆるジャンルの好きな曲を集めて、三味線譜を五線譜の下に書き加えて教える方法を用いたという。

  国連の学校は193カ国の大使の子どもたちが入っている学校で、先生たちは無料で教え、夏期キャンプというセミナーで収入を得る方式だったらしいが、緒方貞子国連弁務官に給料のことを聞かれ、無料ですと伝えたところ、日本から国連への支援金を前倒しすることで、その利子で給料が出ることになったのだという。

  彼は高校を中退して芸能界入り、その時の師は、三橋美智也、春日八郎、ペギー葉山などを世に送り出したプロデューサー・掛川ひさおさん。キングレコードで定年を迎え、コロンビアに移り、金田たつえが「花街の母」で出た時、次は君の番と言われたが彼が倒れて終わり、自分もやめる決心をした。

  習っていた三味線の方も二代目を望まれたが断って、クラウンから自作自唱の「三陸みなと音頭」駒幸夫(本名・駒林幸雄=さちお)でシングルデビューしたのは1978年のことだった。その後の「宗右衛門町ブルース」は15万枚のヒットとなったのだったが、いつの間にか師の遺志ともいうべきプロデューサーへと転身、東京中のレコード店を全部歩いてあの瀬川瑛子の「命くれない」をヒットに結びつけたのでした。

  津波にさらわれた母の形見の三味線で教えた沿岸の子どもたちをニューヨーク国連シアターで演奏させたいとあすの夢を語る。(カフェジャズ開運橋のジョニー店主)


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