盛岡タイムス Web News 2016年  12月  5日 (月)

       

■  〈幸遊記〉308 照井顕 杉田誠一のJAZZ誌とその現場


 1971年3月19日号「アサヒグラフ」(表紙の写真・秋吉敏子)を見つけてきて、僕を喜ばせたのはサンライズマンこと高橋日出男さん。昨年(2015)のことである。僕はそれを今年3月「ジョニーと行く“NY・穐吉敏子の旅”」のお供に持っていき・セントラルパーク・ウエストの穐吉さん宅にて「3-6-'16・ニューヨーク自宅にて・穐吉敏子」とサインしていただいた。

  そのグラフ誌をカバンに入れ、筆者にもサインを頂こうと1万5千円で4日間(JR東日本)乗り放題の大人の休日チケットを利用して横浜・白楽駅に降り立ち「ビッチェズ・ブリュー」というジャズスポットへ行った。店は開店前であったが、オーナーの杉田誠一さん(71)と久しぶりに感激の再会。彼は69年の創刊から76年6月号まで「JAZZ」誌の編集長だった人(新潟生まれ)で、独協大学経済学部中退のジャズ評論家でありフォトグラファー。

  NYのジャズクラブ「ビレッジゲイト」が地下から1階に移って「トップオブザゲイト」となった店で68年に穐吉さんはケニー・ドーハム(tp)、ロン・カーター(b)、ミッキー・ロッカー(ds)、結婚前のご主人・ルー・タバキン(ts)とクインテットで「トップ・オブ・ザ・ゲイトの秋吉敏子」というアルバムを録音している。翌69年杉田さんがそこへ行った日は「ビル・エヴァンスと秋吉敏子さんが交代でピアノを弾いていたが、何と客は僕一人しかいないライブだったよ!」と驚きの証言。

  彼は高校1年の時、横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」に行ってコルトレーンをリクエストしたら、「若いから激しいの好きだろうけど、昔からのバップジャズを聴きなさい!」と言われたという。そして鑑賞クラブを作り、芝公園のアメリカ文化センターからブルーノートレコードを借りてきては聴きまくった。JAZZ誌の編集長時代は、日本のジャズが最も熱かった頃で、編集も燃えに燃え、海外取材にも積極的だったが、70年代の中頃フュージョンが流行し始め、ジャズがジャズらしくなくなったと、あっさり編集を降り、フリー・ライターとして活躍し、本や写真集を出版。10年前からはマイルス・デイビス(tp)の記念碑的アルバム「ビッチェズ・ブリュー」を店名としたジャズスポットを開いて、現場に戻り、現在「ジャズ批評」誌などに執筆中である。
(カフェジャズ開運橋のジョニー店主)


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