盛岡タイムス Web News 2017年  3月  15日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉368 いとし、こいし 三浦勲夫


 大きな競技会や大会で優勝した人がインタビューで感想を聞かれる。「まだ実感が湧きません」と言い、数日後に「ようやく、実感が湧いてきました」と言う。大きな災害で肉親を失った人が「どこかで生きているように思う」と言い、「ひょっこり帰って来るような気がする」と言う。気持ちの面で、霊的な力がその人と別の人を結んでいる。そのような気持ちの作用を、「霊」とか「魂」とか言うのではないだろうか。

  やがて気持ちが吹っ切れて、あの人はもういないのだ、と受け入れられれば霊あるいは魂が昇天する。そのような心的現象が原始時代から継続して、現代にいたる。例えば長年ともに生きたペットに死なれる。飼い主は、いつもの場所にペットがいる、と思うことに慣れている。何度も何度も、居ると思っては、「いやもう居ないんだ」と思い直す。霊的な絆が次第に緩んでいく。不在を不在と自然に受け入れられる。たこが糸で自分とつながっているか、あるいは糸が切れて虚空に舞い飛ぶか。

  その絆がない、あるいはまだ弱いのに、ある人を思う、恋する。夢、恋、憧れは、相手に向かうよりも、成就の期待に向かう。恋に恋する。逆に強かった絆が奪われてしまったのに、絆を再び取り戻そうとする。執着が両者を結ぶ。しかし、次第に絆は緩んでいく。「こうありたい」という主観的な世界が、「それはあり得ない」という客観的な世界に、位置を譲っていく。現実を受け入れる諦めである。

  愛犬ロックが3月7日に他界した。14歳4カ月の生涯だった。いまだに家族は、少し前のロックと自分たちとの生活に慣れている。つい、いつもロックが寝ていた場所に目がいく、ロックが歩いて行く、あるいは自分の方に来る足音が聞こえてきそうな気がする。これは目に見えない糸で結ばれた絆がなせる業である。繰り返せば、霊が両者の間をさまよっている、とも言えそうだ。

  人が亡くなれば、しばらくの間はその人の霊が、近くのあたりをさまよっている、と世間では言う。そう言われると、「なぜ?」と思う。今、「ああ、この現象か」と自分なりに解釈する。しかし悲しみの中に、笑いも出現する。あまりの悲しみに見舞われて、「ロック、帰って来いよ。お化けでもいいから、帰って来いよ」。こう言いながら夜中に皿を洗っていた息子。私の妻が静かに入ってくる。それを見た彼は、「わっ」と言って飛び上がる。仮定法、実現不可能な願いが、超現実的にかなって、願いとの落差に驚いたの、なんの。

  逆に、現実を知ってから、さらに非現実の願いに入り込む。家族が全員、多かれ少なかれ、そのプロセスを経験する、新現実と旧現実との錯覚が継続する。私はロック用の仏具をそろえることにした。ろうそくの火、線香の香り、リンの澄んだ音。お骨が入った白木の箱。果ては、私製の戒名を薄墨で書く。愛徳犬三浦六魂居士。ロック、ロッ君、三浦ロック、東北六魂祭。その全てを込めて作った名前である。

  白木の骨箱を持つと、それなりの重量感はある。矛盾かもしれないが、いつまでもロックの霊が身近にいてほしい。しのぶ手立ては、散歩コースと仏壇と写真である。けさもまた、残った飼い主二人で歩いた。知り合いの犬や飼い主たちとあいさつを交わした。
(岩手大学名誉教授)


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