盛岡タイムス Web News   2018年   6月  19日 (火)

       

■  〈岩崎久彌の足跡 ゆかりの地が連携〉下 国民の食生活への思い 小岩井農場が象徴 近代農牧の発展に心血


     
  小岩井農場倶楽部内を見学する千葉県富里市の小学生(2016年8月撮影)  
  小岩井農場倶楽部内を見学する千葉県富里市の小学生(2016年8月撮影)
 

 岩崎久彌が最も情熱をたぎらせたのは、本県の小岩井農場に代表される農牧事業と言われる。34歳で総帥を退き、40年余りを近代農牧の発展に努めた。その情熱は、国重要文化財に指定された小岩井農場の21施設を「30年後にも恥ずかしくないものを建てよ」と命じて建設したことからもうかがえる。

  ■小岩井農場の経営

   三菱史料館所蔵の「岩崎久弥傳 岩崎家傳記五(岩崎家傳記刊行会編纂)」によると、久彌が本格的に小岩井農場の経営へ携わったのは1906年とされる。農場は彌之助が井上勝鉄道局長、日本鉄道の小野義眞副社長と共同事業として開設。1899年に岩崎家が所有した。

  久彌は当時の日本に類例のない模範的な農牧場建設を目指した。経営の主力としたのは馬の生産。イギリスからサラブレット種を輸入し、飼育繁殖。結果、第3回日本ダービーでは1着から3着まで独占した。育牛、林業、農耕はその傍らで行われたが、小岩井バターなど酪農製品は一般家庭の食生活改善に貢献。長年の植林によって、荒れ地を農場の約65%を占める広大な森に作り替えた。

  ■小岩井農場の日々

  久彌の農場への愛情はさまざまな逸話からうかがえる。久彌は毎年7月から9月、10月まで、家族と農場の一角にある聴禽荘(一般には非公開)で過ごすのを楽しみにしていた。迎賓館と職員の集会所を兼ねた倶楽部の他、農場内の小岩井小に必ず訪れ、学校で催された映画会に家族で訪れていたという。

  農耕用トラクターを購入した際には、細かく指示を出している。寒暖差の激しい県内の気候に合わせてトラクターに防暑、防寒対策が必要と考えての配慮だった。

     
  国の重要文化財に指定されている小岩井農場の上丸牛舎  
  国の重要文化財に指定されている小岩井農場の上丸牛舎
 


  農作物への愛情も深い。トウモロコシが伸びたころに夫人と畑を見回った際、夫人がトウモロコシの邪魔になると思い、大豆を無雑作に引き抜いたことがあった。それを見つけた久彌は「なんだ!そいつは作物だよ、チャンチャンと植ゑとけ」と眼鏡越しにすごい剣幕で夫人をたしなめたという。

  そんな久彌に、職員は敬慕の思いで接した。終戦後、財閥解体で小岩井農牧の岩崎家の株式は職員に分配された。その後、会社から岩崎家への株式返還を提案された職員は「岩崎家にお返しするのであれば、少しも異議はない」と全員が快く同意したといわれ、慕われていた。

  岩崎家の農場は終戦後にほとんど失われたが、ブラジル東山農場は返還され、コーヒーを生産している。小岩井農場資料館の野沢裕美館長は「久彌さんは日本の役に立ちたいという大きな視点に立ち、経営方針を決めていた。個人的にも農業が好きだったという思いがあったと思う」と話している。

  また、東洋文庫の山川尚義専務理事は「農場は、久彌さんの時に牧畜業へ方向性を転じている。乳製品を食べる欧米人に比べて、身体が小さかった日本人の将来を考えてのことだと思われる。小岩井農場など各地をたどることは、久彌さんが日本に果たした役割を考える上で重要な要素。各地と連携することで、さまざまな広がりがあると思う」と考えを話し、期待した。
(戸塚航祐)=おわり=


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