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日本人最年長のドイツ軍捕虜に 第一次世界大戦 開戦から110年 インド洋で襲撃され 盛岡市出身の菅森清治

2024-03-29

菅森清治

 今年は第一次世界大戦の開戦から110年。ドイツ軍の捕虜になった日本人のうち最年長は、盛岡市出身の菅森清治(1858―1923)だった。日本郵船で乗り組みの「常陸丸」が、ドイツ海軍にインド洋で拿捕(だほ)され、菅森は本国のグストロー捕虜収容所へ。この際に襲ってきたドイツ艦艇は、通商破壊戦に大暴れした仮装巡洋艦「ヴォルフ」だった。21世紀のインド洋いまだ波高し。孫の盛岡市の菅森幸一さん(87)は祖父の故事をしのび、世界の平和を願っている。(鎌田大介)

 菅森清治は幕末の盛岡城下、上田組町生まれ。海軍大将となる栃内曽次郎(1866―1932)となじみで、互いに青雲の雄飛を夢見ていた。

 青年時代の菅森は横浜港から単身フランス船で密航し、マルセイユで船舶技師の資格を得る。まさに明治の冒険家だった。

 帰国後は日本郵船に入り、欧州航路に海の男となる。定年退職の年に世界大戦が起き、志願して常陸丸に乗り、風雲のインド洋に乗り出す。

 日英同盟の時代、敵はドイツ。当時のドイツ海軍は連合国の商船を襲い、相手の経済力を締め上げる通商破壊の戦略を取る。そのため、商船を装って相手に近づき撃沈する、仮装巡洋艦というゲリラ的な艦が登場する。ヴォルフはその戦隊のエースだった。

 1917年9月26日、インド洋のモルジブ沖で常陸丸に遭遇して拿捕。狙う相手が商船である以上、仮装巡洋艦は、できるだけ敵国の民間人を殺さぬように戦う。それでも13人の死者を出した。

 常陸丸の乗組員約80人は捕虜となり、ヴォルフに収容され、60歳近い菅森もいた。略奪ののち常陸丸は沈められる。


グストロー捕虜収容所で

 乗組員はドイツ本国に運ばれ、グストロー捕虜収容所に入る。長谷川伸著「印度洋の常陸丸」に苦難が記される。帰国後に菅森が語ったところによると、栄養が乏しく壊血病にかかって瀕死になるほどだった。

 保健衛生上も劣悪。長谷川の著に、菅森は「おい見てくれ、おれは去年が還暦だったのに、どういう天罰でこんな目にあわなくてはならねえのだ。これじゃ食われる前の鶏と一つことで、毛がなくなった上に肌はトリハダと来てやがる。おれは一生涯、ドイツを好きになってやらねえぞ」と、どなり立てた。

 長谷川は「グストロー戦争罪人収容所の周囲は、高さ二米突の有刺鉄条網を二重に引きまわし、電流線を配し正門・裏門には哨舎があって警備兵が昼夜ともに固めている。捕虜の監視、収容所内外の巡羅など、念入りに絶えずやっているらしかった」と書き、環境は過酷だった。


日本の家族に宛てたはがき

 1918年7月に、ユトランド半島内にあるバーキンモアーの収容所に移される。

 大戦は11月11日に休戦条約。菅森らは1週間後に解放され、翌年2月中旬に英国船でリバプールへ。

 帰還船「静岡丸」で、スエズ運河経由で紅海からインド洋に抜け、5月中旬、神戸に入港し、故国の土を踏んだ。

 孫の幸一さんは「おそらく、祖父は子どもの頃から栃内曽次郎と一緒で、海外雄飛の気持ちがあったのだろう。密航してマルセイユに行くほどだった。南部藩士の家であることにとても誇りを持っていたようだ。ただし、父が言うには酒のみで、家族は大変だったらしい」と笑い、豪放な人柄をしのんでいる。



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