2009年 3月 1日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉17 小川達雄 賢治の盛岡案内3

    二、続・田中地蔵

  田中の地蔵さんは花崗岩の座像で、高さは約二メートル半、幅約二メートル、右手には錫杖(シャクジョウ)を、左手にはおにぎりを持っていた。そして台座は高さ約四十、五十センチと二つ重なっていたから、全体の高さは約三メートル半、近寄って見ればどっしりと大きい。

  賢治はこれを前にして、高橋には人助けなど浄土に導く地蔵信仰のいくつかを話したと思われる。賢治は「石川啄木の詩まで引用」して説明したというから、これはふるさとの山川を懐かしんだ啄木の歌をあげて、土地と地蔵の縁にふれたのであろう。

  啄木には、こんな回想があった。

  「或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。
  仁王小路から三戸町、三戸町から赤川、
  此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、畷
  (ナハテ)といふ十町の田圃(タンボ)
  路がある。自分は此十町の無人境を一往
  返するを敢て労としなかつた。のみなら
  ず、一寸(チョット)路を逸(ソ)れて、
  かの有名な田中の石地蔵の背を星明りに
  撫づるをさへ、決して躊躇(チュウチョ)
  せなんだ。」(「葬列」)

  啄木の頃には、桜山神社が南部藩公の菩提寺近くに置かれていたことがある。啄木は仁王小路から高下駄を鳴らして、その桜山(現在は旧桜山、北山の一部)までを、勢いよく往復したにちがいない。その頃、田中の地蔵さんは教浄寺の門前にあったから、啄木は「一寸路を逸れて」、その背を撫でたというわけである。

  この未完の小説「葬列」の焦点は、狂人を弔うさびしい葬列が県庁前の大通りを行き、その棺に汚れた女乞食が取りすがる哀れなシーンであるが、これは啄木の心の奥に潜む、〔死〕への抜きがたい関心を語っていた。賢治にしてみれば、それは地蔵尊の助けを必要とする世界である。田中の地蔵さんの説明に啄木を引用したのは、知らず知らず、賢治は両者の底に流れている、人の世の哀しみといったものを感じていたからかもしれない。

  現在、田中の地蔵さんの脇を流れていた赤川は影も形もなくなり、舗装された道が続いているばかりである。わたしがその場所を目にしたのは、いまから七十年ほど前、新潟・糸魚川から盛岡に引っ越して来た昭和十三年のことであるが、その年、その道は上田まで、片側ずつコンクリートで覆われた。

  その頃、赤川の橋から上流の河原には、赤川の水で暮らしている一軒の小屋があって、その少し先には、大きな水車が回っていた。その小屋には、わたしと同級の少年がいて、担任の先生と病気見舞いに行ったりしたから、その小屋のようすはまだ覚えている。その少年は、間もなく亡くなってしまった。

  賢治が高橋と出かけたのは、その頃より二十年少し以前のことである。二人は地蔵さんの後ろの一銭店や赤川橋、木々の繁った河原を目にしたであろうか。

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