2009年 3月 12日 (木)

       

■ 〈啄木の短歌、賢治の短歌〉137 望月善次 他者の涙

 【啄木の短歌】

  興来れば
  友なみだ垂れ手を揮りて(ふりて)
  酔漢(えいどれ)ごとくなりて語りき

        〔『一握の砂』189〕

  〔現代語訳〕興がのって来ると、友は涙を流し、手を振り回して、まるで酔っぱらいのようになって語ったのです。
 
  【賢治の短歌】

  ある星は
  われのみひとり大空を
  うたがひ行くとなみだぐみたり。

      〔「歌稿〔B〕」406〕

  〔現代語訳〕或る星は、自分だけが只一人、この大空を疑いながら行くのだ涙ぐんだのです。

  〔評釈〕啄木・賢治の短歌においても、涙は多く話者自身の涙であり、今まで主としてそうした涙を対象としてきたが、今回と次回は、話者以外の涙の場合を考察したい。すなわち、話者は「観察者」としている。啄木歌のモデルは、金田一京助だとされるが〔宮本吉次『啄木の歌とそのモデル』(ブラジル出版会、一九二九)他〕が、モデルを特定することの長短(具体像がより鮮明になるという長所とモデル特定が考察の終極点となって作品考察がおろそかになる短所)は、抽出作品においても例外ではない。「興来れば」の場には話者もいたことであろう。話者も「興に同じた」可能性も高い。行動者としての話者と観察者としての話者がおり、後者の話者が、「涙、手」に着目し、「酔漢」のようだとしたのである。賢治歌の特徴は、何と言っても、涙ぐんだ主体が「ある星」という無生物である点である。「ひとり、大空、うたがひ」は観察描写だが、話者の姿ともダブってくる。

(盛岡大学長)


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