2009年 3月 14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉99 岡澤敏男 セピア色した大沢坂峠

 ■セピアいろした大沢坂峠

  無明の戦争におもむく佐々木八郎、死病と危ぶむ結核に苦悩する村上昭夫、この二人の青年が童話「烏の北斗七星」のマジエル星への祈りに託す戦争観から生きる勇気を得た事実は、この戦争観を「余りに美しく虔(つつま)しすぎはしないか」と批判した小沢俊郎氏の見解を覆すというべきでしょう。

  この童話は、以前に指摘したようにワシントン会議の海軍軍縮案が最終的協定を迎えた大正10年12月21日に起草されており、時局の焦点をなす「海軍」を素材に書かれたとみられる。

  烏(ハシボソカラス)艦隊と対峙する山烏(ハシブトカラス)艦隊との戦争をモチーフにして、「愛」と「戦」と「死」の問題を美しく描いたのです。

  この童話の発想は1年前に書いた短篇「秋田街道」にそのきざしがみられます。それは仁沢瀬台地の四つ角山にみんなべたべた座ったときのことです。

  だれかが煙草にマッチの火をつけると右手に山がまっくろに浮び出して〈その山に何の鳥か沢山とまって睡ってゐるらしい〉と書いてある箇所に注目したい。

  この場所から右手に位置する山はおそらく烏泊山を指し、〈鳥が沢山と(泊)まって睡ってゐる〉状況に想像をめぐらせているのです。

  この短篇は「アザリア会」4人による〈大正六年七月〉の夜行体験を素材としているが、執筆したのは〈1920年(大正9年)9(月)〉とみられており、1年後の烏泊山を舞台にした童話の構想がすでに浮んでいたと推測されます。

  盛岡高農時代の賢治は地質調査の際に、変わった山名にひかれ標高389メートルの烏泊山に訪れたのかも知れません。山頂近くの杉の営舎から烏の大尉が夜間双眼鏡で北方を見て〈星あかりのこちらにぼんやり白い峠〉の〈一本の栗の木〉を確認する場面には実景の描写を感じさせます。

  「白い峠」とは大沢坂峠(374・9メートル)のことで烏泊山との標高差は14メートルしかなく見通しよく望まれるのです。

  童話ではこの峠を「セピラ峠」と呼んでいます。この「セピラ・sepira」の峠名は、たぶん黒褐色のいろを表す「セピア・sepia」をもじったものでしょう。賢治には「セピア」いろで表現した大沢坂峠の詩があるのです。

  その詩は大正5年に使用された「装景手記」ノートに〔今夜ねむらうとして〕と書かれた作品にみられます。賢治は大正3年のヒデリの夏、稲作指導に奔走し疲労困ぱいして倒れ病床生活をした8月10日から40余日間の病臥中に書かれた詩稿です。

  「装景手記」ノートには〔風がおもてで呼んでゐる〕〔いまわたくしの胸は〕〔こんなにも切なく〕の作品と並んでおり賢治の悲痛な声が聞こえる作品です。病臥中の多くの詩稿はラベルに「疾中」と記入された黒クロース表紙にはさまれ保存されているが、前記の〔今夜ねむらうとして〕の詩も推敲(すいこう)され〔眠らう眠らうとあせりながら〕の題名で収録されています。高熱と発汗に苦しむ病床で、〈あゝあのころは〉と二十の頃を切なく思い浮かべながら、

セピアいろした木立を縫って
きれいな初冬の空気のなかを
  石切たちの一むれと
  大沢坂峠をのぼってゐた

と回想しているのです。

  賢治にとってセピアいろした大沢坂峠とは、まさに鎮魂の風景であったようにみうけられるのです。


  ■〔こんや眠らうとして〕
          「装景手記」ノートより

  こんや眠らうとして
  たうたういままで五時間
  汗と熱のなかでもだえた
  わたくしはひとごとのやうに
  昨夜のわたくしを羨む
  昨夜のわたくしはセピヤや黒の木立を縫って
  水晶の初冬の風のなかを
  石切たちと
  大沢坂峠をのぼってゐた
   〔眠らう眠らうとあせりながら〕
  眠らう眠らうとあせりながら
  つめたい汗と熱のまゝ
  時計は四時をさしてゐる
  わたくしはひとごとのやうに
  きのふの四時のわたくしを羨む
  あゝあのころは
  わたくしは汗と痛みも忘れ
  二十の軽い心躯にかへり
  セピヤいろした木立を縫って
  きれいな初冬の空気のなかを
  石切たちの一むれと
  大沢坂峠をのぼってゐた
          詩稿「疾中」より

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