2009年 3月 15日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉21 小川達雄 賢治の盛岡案内7

     六、石割り桜

  盛岡中学の向かって右隣、盛岡地方裁判所の中庭には、樹齢二百年余の石割り桜があった。高橋秀松はなにも記してはいなかったけれども、それは岩手公園へ行くちょうど道筋に当たっていたから、賢治は石割り桜を指さして、やはりいくつか説明をしたことと思う。

  −真っ二つに割られたその花崗岩は、盛
  岡ではそちこちで見かけられること、桜
  は春早く咲くエドヒガンザクラであるこ
  と、等々−

  それはどの案内書にも洩れなく紹介された、盛岡を代表する名所である。

  当時の状況はいったいどんなであったか、賢治の時の写真を探していたところ、たまたま佐藤洸氏から、美しい石割り桜の絵はがきを頂戴した。これは昨年の大地震のあと、市が各公民館に配布したものという。

  左に、賢治が歩いた時の前年、大正三年の写真と並べて紹介しておくが、なんとも大正の石割り桜のさびしいことには驚かされた。花はたしかに咲いてはいるものの、剥き出しの枝の間に散っていて、現在の繚乱たる、華麗な樹容とはくらべものにならない。計測してみると、現在の樹高及び樹冠の幅は、大正三年代のじつに二倍余りに達していた。

  昭和二十二年八月の岩手行幸の際に、昭和天皇は小泉市長に〔石割り桜はどうなっているか〕とお尋ねになったが、その後豊香園・藤村益次郎さんの献身的な世話によって、桜はみごとに生き返った。

  大正の時代のつつましさに頭を下げつつ、ただいまの石割り桜の勢いを喜ぶ。

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