2009年 3月 22日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉23 小川達雄 賢治の盛岡案内9

    七、続・岩手公園

  賢治たちが岩手公園を訪れたその十日後、おもしろいことに公園本丸で見かけた高農生のことが、『岩手毎日』紙に載っていた。めずらしいので次にあげておく。

  「〜近在から出て来たらしい若い衆は南
  部中尉の銅像を見上げて『あの馬のマナ
  グダマなぢよだでア』とか何とか日永(
  ヒナガ)にふさはしい評定に夢中になり、
  農林の生徒らしい書生さん達は崖の上に
  立つてまだ白皚々(ハクガイガイ)たる
  岩手山とそれに続く山々の襞をふり仰ぎ
  ながら『あの辺は日本アルプスつて云ひ
  たい形をしてるね、あの辺の雪はまだ深
  いだらうなア』と語り合つてゐる、本丸
  から二の丸へ下りると槲(カシ)の樹は
  去年の名残の古い葉をガサガサ春風にそ
  よがせて居た』(大正四年四月二十日付)

  その頃、盛岡市に官立の学校は高等農林だけだったので、それで記者の注意をひいたらしい。賢治と高橋秀松も、市民からはやはり注目されたと思う。

  それから、「若い衆」の盛岡弁とその内容であるが、わたしはあの銅像の馬の目に注目した人を、初めて知った。その銅像を制作したのは新海竹太郎、彼はその五年前に、近衛師団司令部の庭に建った北白川宮陸軍大将の銅像を制作した(いまも現存)。

  銅像制作に際して、新海は炎天下に九段坂を登る荷馬車の馬を研究したという。脚の筋肉、胸の張り、尻尾等々、詳しく見たのであろうが、さて「マナグダマ」の具合はどうだったのであろう。その若い衆がもし荷馬車曳きだったとすると、なにか具体的な見方があったのかもしれない。

  また賢治がよく取り上げたのは、本丸の中津川に面した、崖附近のアーク燈である。賢治はこの翌々年、新田町の太田橋近くから振り返って、「公園のアーク燈だけ高い処でそらぞらしい気焔の波を上げてゐる」(「秋田街道」)と記した。

  賢治は市内から離れて、アーク燈からは突き放されたように感じていた。それだけ、本丸のアーク燈は好ましかったのであろう。

  そして同じように好んでいたのは、岩山の眺めであった。次回の文語詩「岩手公園」は、本丸の崖附近から岩山を望んだ景観から始まったことに注目したいと思う。

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