2009年 4月 4日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉26 小川達雄 賢治の盛岡案内12

   九、盛岡案内補遺

  この項は、実際には前回で終了したが、なおいくつかの付け足しをしておきたい。

  田中の地蔵さんは、そもそも教浄寺の門前からどの道を運搬したのか、それが不明であった。運搬の方法としては、敷いた鉄板の上に鉄管のコロを横に並べて、その上を曳いたのであろうが、問題は赤川の橋である。

  あれでは脆くて、とても地蔵さんの重量には耐えきれず、それでわたしは、北山十文字から花屋町を通って行った、と考えている。これは、ご存じの方からご教示をいただきたいものだ。

  四ツ家教会の鐘は梵鐘とは違い、縁の部分が薄いせいか、「カーン」と鳴る場合、子音の「k(カ)」が、はっきり聞こえるようである。賢治のおかげで中尊寺と四ツ家教会の鐘の音に注意したが、それからは鐘の音を聞くたびに、耳を澄ませるようになった。

  四ツ家教会の鐘は、現在は人手によらず、山形の業者によって自動で鳴るように設定されているという。以前は正午と夕方六時に鳴らしていたが、いまは正午にのみ鳴らす、と教会の方からお聞きした。

  石割り桜の世話をされた藤村益次郎氏の名前は、佐藤洸氏の教示による。現在その保護は息子さんが継いでおられるという。

  昭和二十二年八月、昭和天皇は小泉多三郎市長に石割り桜のことをお尋ねになった(県秘書課『岩手県行幸誌』)のは、昭和三年の陸軍大演習の際に、それをご覧になったからであろう。その時の御座所は盛岡中学の上田校舎で、玄関上のバルコニー(啄木が立ったバルコンの二代目)を見下ろす教室に設置されていた。

  岩山の麓の天満宮には、杉の木立の中に神楽殿と拝殿があり、拝殿の右に「飛び梅」(菅公左遷を惜しんだ梅の一枝が空を飛んで配所に根を下ろしたという)が枝をさし伸べていた。賢治はこれに目を留め、高橋と鈴を鳴らして拝礼したであろうか。

  天満宮からの帰り道は、これは上の橋までの道路を、まっすぐ行ったと思う。帝国陸地測量部による大正五年発行の地図にその記載はないが、大正二年に城南小学校が竣工しているから、賢治の時はその道が出来ていたはずである。その時は上の橋近くの丸竹で、二人はアンコ餅を食べたのかもしれない。
         −この項、了


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