2009年 4月 19日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉31 小川達雄 青春5

   

二、続・独乙冠詞のうた

  文語詩というのは、賢治の亡くなる昭和八年九月の、その寸前に清書された作品群である。入学直後の「独乙冠詞」の歌と同じ内容の文語詩に、帰り道を行く「髪白き山田博士」がうたわれたことには、なるほど、とうなずかされるように思う。

  というのは、厩舎の戸口の歌は「苺畑の柘植先生」を見かけて始まったと同様に、こちらにも先生への敬意の念がうかがわれるからである。そして、賢治のその気持ちは、入学時から文語詩をうたったその時まで、変わることはないのであった。

  さて「独乙冠詞」の歌であるが、地質学と並んで、賢治の最も学びたかったのは、たまたま寄宿舎の窓から聞こえて来た、そのドイツ語であったと思われる。
 
  しめやかに
  木の芽ほごるゝたそがれに
  独乙冠詞のうた嘆きくる  二三八
 
  入学してすぐ、賢治といっしょに盛岡を歩いた高橋秀松は、こう記していた。

  「〜なお、賢さんの寄宿舎での朝夕をの
  べておきたい。彼れは盛んに読書した。
  特に独乙語を勉強し、夏休みには上京し
  て神田の学校にかよつたりした。朝と夜
  とに端座して読経するのが慣わしであつ
  た。二年生であつたと思う。」(川原編
  『周辺』)

  そのドイツ語について、翌年に同室となった萩原弥六は、次のように記している。

  「学校ではドイツ語の授業は一年生の時
  にはなかつたので、入寮後間もなくドイ
  ツ語自習書の購読を彼にすすめられ、ド
  イツ語の勉強を始めた。当時二年生であ
  る彼は原語でアンデルセンの童話を読み
  こなし得た。」(川原編『周辺』)

  こうした賢治が、高農に入学して間もなく、熱心なドイツ語の復唱を耳にしたのである。農科二部とは違って、それは一年生からドイツ語の講座があった林科の生徒であろうが、語学にはもともと関心のあった賢治のこととて、思わずその声に耳をそばだてたに相違ない。

  この歌の非常に変わっている点は、そのおしまいの語句、「うた嘆きくる」であって、ふつうの短歌であれば、〔聞こえくる〕などと、すべて作者の側に引き寄せてしまうはずである。しかし賢治は、やや〔唐突〕な感じもあるが、対象そのもののうごきとして、そのまま示す。

  この歌では、「独乙冠詞」を繰り返しているその声(うた)が、じかに「嘆きくる」−はたらきかけてくる、というのである。換言すれば、「嘆きくる」の主語は「独乙冠詞のうた」であって、それはとりもなおず、擬人法の表現になっている、といったらよいであろうか。

  この歌には、賢治のやさしさとやわらかな把握、それに復唱している声と一体になった呼吸があって、学年当初のいきいきした鼓動が響いてくるようであった。


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