2009年 7月 9日 (木)

       

■ 〈北Gのライブトーク〉95 北島貞紀 安森祥太郎に会いたい(中)

 ジャム・セッションとは、定番の仕事が終わった後にミュージシャンが集まり、本当に自分たちが演奏したい音を出すことから始まった。そこは仕事を離れて、純粋に演奏を楽しむ場であると同時に、演奏者同士の真剣勝負の場でもある。そして誰でもステージに立てるというものではなく、その力量にあった「格付け」のもとにおこなわれる。

  その後語り草となる「モカンボ・セッション」は、とても異例であった。普通出演するミュージシャンからはお金を取らないのだが、その夜は、全員から500円の入場料を取った。コーヒー一杯40円の時代である。(ドラマー清水某の出所祝いと再起の資金集め)

  それにもかかわらず、そのころ名だたるミュージシャンが大勢顔をそろえたのである。

  ある意味でいうと、そのころの日本のジャズのベストメンバーを決めるようなセッションであった。そんな中で、守安祥太郎はピアニストとしてだけではなく、その音楽性で他から一歩抜きんでた存在であったという。

  何がどう違うのか。そこころ、ジャズの本場アメリカでは、チャーリー・パーカーやデジー・ガレスピーらを中心に、軽快なダンス音楽を主流とするスィングにあきたらず、高度なアドリブを展開するビー・バップの創生がおこなわれていた。

  そんな潮流の中で、日本のミュージシャンのほとんどはスィングどまりであって、ビー・バップの流れを察知した連中にしても、表面上の音面を追っていただけに過ぎなかった。唯一、守安祥太郎だけが、音を採譜し、理論付けし、ビー・バップの意味を理解して独自のアドリブを展開していたのである。

  モカンボ・セッションが行われたのは1954年7月27日、守安祥太郎は30歳であった。その1年後、彼は自死する。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします