2009年 7月 16日 (木)

       

■ 〈北Gのライブトーク〉96 北島貞紀 守安祥太郎に会いたい(下の1)

 守安が日本のジャズシーンに登場するのは、たったの6年間である。その時代の日本人で「ビー・バップ」を理論的に解明し、独自の音として表現できたほとんど唯一のピアニストだったにもかかわらず、一般的にはほとんど知られていない。スィングジャーナル誌に、かろうじて名前が出てくる程度である。

  「そして風が走りぬけて行った」(講談社)の著者植田紗加栄は、ごく一部の人の記憶に残っていた守安の足跡を丁寧に追っていく。それはジャズピアニスト・守安への帰結ではなく、守安祥太郎の人生へのオマージュである。

  1924年東京に生まれた守安は、家族の呼称を「お母さま」「お姉さま」と呼ぶような上流階級に育つ。幼稚舎から大学まで生粋の慶応ボーイである。お姉さまが習っていたピアノに興味を持ち、遊び感覚で独習していった。そしてわずかの間に、姉を追い越してしまう。

  大学ではヨット部に籍を置き、主将まで務める。

  こう書いてくると、精悍で颯爽(さっそう)とした青年像が浮かんでくるが、実際はどうだったのか。

  写真で見ると、守安はかなり背が高い。柔和な顔立ちでメガネをかけている。のっぽで優しいメガネさん、サザエさんに出てくるマスオさんタイプだ。「優しくて力持ち」といいたいが、体は弱かった。優しさにかけては、超がつくくらいだった。

  各年代の同級生やクラブの関係者からの印象は、目立たずとても影が薄い。「そんなやついたかなぁ」的な存在なのだ。ヨット部でも、帆の修繕や整理を黙々とやるタイプで、主将になったのにも訳があった。

  太平洋戦争の戦況が悪化し、学徒出陣にまで追い込まれた。体の弱かった守安は前線ではなく、国内で銃後の守備要員となる。敗戦で休部になる前の最後の主将であった。

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