2009年 7月 23日 (木)

       

■ 〈北Gのライブトーク〉97 守安祥太郎に会いたい(下の2)

 終戦の翌年大学を卒業した守安は、いやおうなく守安家の大黒柱となった。敗戦のさなか意に沿う職もなく、やっと厨房メーカーの営業職につく。乳母日傘で育ち、心根のやさしい内気な守安に、営業の仕事など勤まるはずもなかった。そんな中で、進駐軍のために職業バンドの需要がでてきた。こうした中で1949年、守安はバンドの世界に入った。

  守安は、自己流であったがクラッシックを相当弾き込んでいた。特にショパンが得意だったらしい。守安はピアノという楽器を相当にマスターしていたと思われる。好きなことに打ち込める環境となって、守安は水を得た魚のようにジャズを吸収していった。

  進駐軍には、毎月アメリカ本土から最新レコードが送られてきた。その中からジャズの最新版を融通してもらった。アメリカの最新のジャズをほぼオンタイムで体験できたのである。

  守安はそのレコードを徹底的に聴きこみ、採譜していった。ちゃんとした譜面も理論書もない時代、音が出せればいいというレベルの時代に、守安はジャズの最先端であるビーバップを採譜し、理論化していったのである。まさに孤高の探求者であった。

  ジャズの先駆者、独走者ではあったが、女性に対しては奥手であった。生涯心を許せる相手を見つけることはかなわなかった。また、名門の出である母親には、バンドマンという職業は容認できなかった。それでも一家の柱として金を稼がねばならなかった。

  伝説のモカンボ・セッションのあたりが、守安の音楽的絶頂期だったのかもしれない。その後、ステージ上での奇行が目立つようになる。ピアノに背を向けて後ろ手で弾いたり蓋(ふた)を閉めた状態で弾いたりしたという。(それでもきちんと弾く、超絶技巧であった)

  1956年9月28日、守安は山手線の目黒駅の線路に飛び込む。遺書はなし。享年31歳、まさに風のような生涯であった。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします