2009年 7月 26日 (日)

       

■ 〈阿部陽子の里山スケッチ〉110 栗木ケ原(くりきがはら、1162メートル)

     
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  三ツ石山山頂から西の方角をふかんすると、月面のクレーターみたいに丸く凹んだ湿原が見える。|栗木ヶ原だ。生きとし生けるもののざわめきが、風にあおられ私の耳元へそよそよ届く。すると松沢を遡行したときの光景が私の脳裏にジワーッとよみがえった。

  あれは盛夏だった。鏡のように静まりかえった池塘は、雲や花々を水面に映す。退屈そうなイモリが四肢を伸ばしてドロンと浮き、虫たちはひと夏をせわしく飛びかっていた。

  クマが寝そべったのであろう草地がぐったり萎(な)えている。リスやヘビ、鳥たちは短い夏を惜しむかのように群れ、生暖かい命の交換で喧(やかま)しい。栗木ヶ原は、雫石町の葛根田川上流部、海抜1150bに形成された高層の湿原である。

  ブナやネマガリタケが覆う栗木ヶ原には、地図上のルートが全くない。ミドリ深い広大な葛根田川流域を在りのままに保全するということで、あえて登山道を切り拓かないのだとも聞いた。

  数カ所で泥と水蒸気の噴出口を見かけたが、この暖かな地表はヘビやクマの大好きな住環境である。だから、バッタリ鉢合わせしないようスズは必携だ。道なき道を進み、かつ出発地点へ確実にもどる知恵や技術を要する栗木ヶ原は、未来永劫、動物たちに与えられし秘密の花園に留めておきたいとも思う。
 
  私はこれまで栗木ヶ原に4回チャレンジしている。松沢と並行する尾根歩きは、いずれも1000bまで達したところでブッシュに押し返され、断念した。首尾よく湿原まで行き着いたのはただの1回。葛根田地熱発電所から松沢を遡(そ)行し、栗木ヶ原経由で三ツ石に突き上げたときであった。

  むかし、地図やスポーツ登山という概念がなかったころ、判別明快なルートは「沢」であった。沢を歩き、温泉臭いシャワークライムを浴びながら、いくつかの滝を登る。危険な場所はロープで補助し、沢をつめる。ときには滝壷に落ち滑る岩に泣かされるが、暑い盛りの沢歩きはスカッと豪快だ。

  松沢は、栗木ヶ原の水流に端を発した葛根田川の支流である。さらに、三ツ石山など1400b級の山々の連なりが湿原を円形状に囲み、それらの水脈で栗木ヶ原を潤したのち松沢となって葛根田川へと注ぐ。松沢は上流部でアマゾン川のように蛇行するが、流れを忠実にたどりさえすれば、正確に湿原へ導かれる。

  沢で、尾根で、落ち葉のすきまで……カニを見た。自然のままが似つかわしい栗木ヶ原は、三ツ石山から眺めるに留めておきたい湿原の一つであろう。

  (版画家、盛岡市在住)

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