2009年 11月 8日 (日)

       

■ 〈早池峰の12カ月〉18 丸山暁 おお神よ、祠で何に祈るのか

     
   
     
  紅葉散る石組みの小さな祠(ほこら)。旅心をくすぐる、なんとひなびた風景であろうか。実は、この祠は、この地に来た17年前に僕が作ったものである。この祠で何に祈るのか。

  僕は、いわゆる神様は信じない。しかし、神はこの世かあの世か分からないが、無の存在として在ると考える。しょっぱなから禅問答のようになったが、早い話、人間が考え出した教義付けされた世界宗教(キリスト教、仏教、イスララム教など)、世の中が不穏になると雨後のタケノコのごとく現れる世俗宗教は信仰していないが、森羅万象、宇宙を生み、僕を僕たらしめている何か、そういう何か、無の存在を僕は神だと信じている。

  人間とチンパンンジーは98%遺伝子が同じであるとか、この世は神が7日間で作ったのではなく、ビッグバンによって一瞬のうちにできたと考えられている今という時代、僕が考える神も信仰の対象となるのではないかと思っている。

  考えてみれば、日本の八百万(やおよろず)の神々や原始宗教はこれに近く、人間本来の純粋な宗教観であるともいえる。

  僕が何故既存の宗教に対し無神論者になったかといえば、少年期広島での暮らしにある。僕は学校の帰り道、いつも通る元安川(被爆した市民が熱さから水を求め飛び込み折り重なって死んでいった川)にかかる南大橋の真ん中で何度も神様に問い掛けたことがあった。

  「神様は何故、広島に原爆を落とした。この世を人間を創ったのが神様なら、人間はお釈迦様の手の内にあるなら、何故、広島への原爆投下を止められなかった」と。

  ある時は心の中で、ある時は声に出して神様に何度も問い掛けたが、一度としてキリストもお釈迦様もアラーの神様も出てこなかった。僕はその時、いわゆる神様を捨てた。

  宗教は個人の心を癒やし勇気づけ、社会的な道徳感を醸成する役割においては多いに歓迎するが、宗教は集団的な活動となり権力となり、政治が利用すれば、人類最悪の凶器、悪魔ともなる。そのことは歴史がものがたり、現在も紛争の引き金に利用され、争いをあおる。

  神様の神様たるゆえんは奇跡を起こすことである。空から魚を降らせたり、死んだと思っていた人をよみがえらせたり、お地蔵様やマリア像が涙を流したり。そんなことは、世の中にはけっこうあるものだ。

  僕でさえ、黄泉(よみ)の国の入り口まで行ったことがある。それを奇跡というなら、私を私と考える私が今ここに存在すること、人間一人一人の存在そのものが奇跡である。神様が起こす奇跡など、ミスターマリックの超マジックよりも分かりやすい。

  神様を冒涜(ぼうとく)する不信心者にバチを与えないでと、今宵は石の祠に手を合わせておこう。僕の祠は信仰の自由を保証します。あなたの神様、神に自由に祈りをささげてください。
(丸山暁建築・空間工房、大迫・外川目在住)

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