2010年 4月 1日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人春又春の日記〉1 古水一雄 久保庄の人々

     
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  佐藤春又春(佐藤和子氏所蔵)  
     (序)

  明治18年、山陰(やまかげ・現茶畑)の久保庄(くぼしょう)の別荘で一人の男児が誕生した。名前を庄太郎(しょうたろう)といった。

  久保庄があった肴町は、盛岡で江戸時代から老舗の集まる商業地である。久保庄は、天保12年(1831年)9月30日に肴町に店を構えて営業を開始する。

  先代は茂兵衛(もへえ)といった。もともとは見前村(現盛岡市見前)で大々的に農業を営んでいたが、副業として息子の庄兵衛に店を出させたものである。店では小間物を扱った。

  初代庄兵衛(しょうべえ)には跡継ぎの男児はないので、他家から養子を迎え、翌年娘と結婚させている。そしてその翌年に久保田屋庄兵衛(くぼたやしょうべえ)を名乗らせて商いをさせたのである。

  2代目・庄兵衛(利吉)は商才にたけていて洋物小物や書籍にも商品を拡げ、花輪(現秋田県鹿角市)など旧盛岡藩にまで足を伸ばして商売をしていた。

  2代目・庄兵衛には熊太郎という跡継がいたが、若死にしたために、三女の徳に婿をとらせ後継者としたのであった(長女は早く亡くなり、次女は他家に嫁がせた)。

  徳の婿となった人物は、はす向かいの鈴江印房の鈴江喜助(すずえ・きすけ)である。喜助は若い時分、上京して遊学をしていたとみえて、明治13年の春に上野かいわいで催された同郷の学生の花見会の記念写真のなかに田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)や山屋他人(やまや・たにん)らと並んで写っている。長身の好青年である。

  徳と喜助の間には、6人の子どもがいたが、5番目の女児と6番目の男児はともに夭折(ようせつ)している。

  長男は幼名を庄太郎といった。後の春又春である。盛岡中学校を3年で中退し、一時期東京の英語学校で学んでいたが、2代目・庄兵衛が没したために家業に就いた。3年後、父である3代目が病死し、久保庄の4代目・庄兵衛を名乗り当主となった。

  次男は庄次郎。東大を出て大蔵省(今の財務省)の役人になったが、春又春の死後帰盛し、5代目・庄兵衛となった。帰盛して程なく結核に倒れた。庄次郎の一人息子・信一郎(しんいちろう)が6代目・庄兵衛となった。まだ、中学生であったという。

  三男・庄三郎は盛岡中学校を退学し家業を手伝った。

  四男・庄四郎は東大を卒業後ブラジルなどに赴任している。

  春又春は、幼少のころから短歌や俳句に親しみ高等小学校のころにはもう文芸雑誌に投稿したりしている。

  生涯の大半を盛岡で過ごし、家業の傍ら死の間際まで作歌・作句にいそしんだ。

  短歌では伊藤左千夫(いとう・さちお)と交流し、短歌雑誌「馬酔木(あしび)」を中心に発表を続けた。また東京から戻ってからは、杜陵短歌会(とりょうたんかかい)をつくり活動した。

  なかでも俳句では、子規の高弟の河東碧梧桐(かとう・へきごとう)に才能を認められ、「天才」と言わしめている。

  日記は65巻残されているが、日記とともにはがき・回覧雑誌・自作句集・短冊などもあり、今後の日記の解読に大きな役割を果たすものと思われる。

  本稿「春又春の日記」は、1巻から65巻まで各1巻ずつを取り上げ、その日記に書かれているエピソードなどを紹介し、解説することとしたい。エピソード内容によっては、数回に分けて掲載することになるかもしれない。また、当時の世相にもいささか触れていくことにもなろう。

  掲載は隔週、全シリーズ70回を予定しているので、3年間ほどお付き合い願いたい。
  (盛岡てがみ館・前館長)

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