2010年 4月 24日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉157 岡澤敏男 三峯神社の狼の御札

 ■三峯神社の狼の御札

  賢治が三峯神社に参詣したのは大正5年9月、盛岡高等農林2年生のときだった。関豊太郎教授の引率で9月1日より9日まで、秩父地質旅行に行った5日目のことです。長瀞の上流にある支流贄川(にえがわ)沿いにガタ馬車に乗って荒川村白久を経て大滝村大輪から三峯神社へ向かいました。

  神社は三峯山(1102b)に鎮座しています。三峯神社に保存する『日誌』に「大正五年九月五日 盛岡高等農林学校教授関豊太郎同神野幾馬生徒二十三名引率登峰」「九月六日 盛岡高等農林学校関教授一行社降」という記録があるという。

  神社に到着したのは夕方ころ、賢治は宿坊で夕食をとった後に単独で妙法ケ岳(1332b)に足を運び、奥宮を登拝したことが保阪嘉内あてはがきの歌稿からうかがわれる。このはがきには9月6日「武蔵国三峯山」とあり鉛筆で9首の詠草が記されており、そのうちの5首を引用する。

  @峡流の白き橋かもふるさとを、おもふにあらず涙あふれぬ
  A大神にぬかづきまつる山上の星のひかりのたゞならなくに
  B星月夜なほいなづまはひらめきぬ三みねやまになけるこほろぎ
  Cこほろぎよいなびかりする星の夜の三峰山にひとりなくかな
  D星あまりむらがれる故恐れしをなくむしのあり三峰神社
  (頭書の丸数字は筆者)

  Aの歌の山上とは奥宮のある妙法ケ岳を指し、この山上の満天の星月夜にただならぬインスピレーションを交感したものらしい。しかし交感したのは「山神の霊」だったと思われます。また「大神」とは「おおかみ‖オホカミ‖狼」の隠し言葉だったのかもしれません。

  鎌倉時代の辞書『名語記』に「オホカミ」を「オホハ大也 カミハ神也 コレヲハ山神ト号スル也」と説明している。すなわち「オホカミ」とは「大神」からきており、「大神」はまた「山神」と呼ばれているのがわかる、と菱川晶子氏は『狼の民族学』で指摘し狼を山の神とする伝承は鎌倉時代にあったとする見方をしています。

  近世になってから「山神」だった狼の身分が変化して狼は「神使」となり、三峯神社は狼を眷属神の大口真神(おおぐちまかみ)として祀(まつ)りました。そして2匹の狼を刷り込んだ「狼を借りる御札」を発行して信仰を広めました。

  農民は作物の害獣の鹿や猪除けの守護、一般人は火難、盗難除けの守護として御札の付与をうけ「狼を借りる」のです。賢治は社務所でこの御札を手にしたのでしょう。そして夜の奥宮に登拝したとき、眷属神である狼の「たゞならぬ」気配を感じ、われを忘れて「こほろぎ」と同調してゆくのです。

  B、Cの「こほろぎ」は賢治自身を重ねているものに違いありません。夜空にひらめく「いなづま」もまた神霊のお告げと知覚し、メランコリー(鬱の)ファーゼにある賢治の心情が極まってCの結句に「ひとりなくかな」と詠嘆を吐露しました。

  @は三峯神社に到着する直前の峡流の白い橋を詠んだ歌で、なぜなのか「白い橋」を見て涙ぐんでいるのです。この歌は、すでにメランコリーに蝕(むしば)まれていた賢治の深層を表象させている一首だとみられます。

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