2010年 5月 11日 (火)

       

■ 〈蒼々たる天に〜下ノ橋教会中興の祖・牧師土田熊治〉15 菊池孝育

     
   
     
  ここでクニ夫人の実家鎌田家について述べる。鎌田家については「鎌田昌琢・富士子の生涯(鎌田忠人、平成5年)」を主として参考にした。以下はその概要である。

  クニの兄鎌田昌為は、医師昌琢の長男であり、クニは六女である。父昌琢は諸方で医術を修得した後、長崎で蘭方を学んだ。28歳にして、相馬藩医に登用され、元治元年(1864年)まで務めた。

  記録によると、「文久三(一八六三)年三月、台命を受け、上洛の将軍(十四代家茂)に供奉、新徴組医局長」を務めたとある。医師としての声名は江戸幕府にまで及んでいた証左であろう。また昌琢は、本邦初の子宮外妊娠の外科手術に成功したことで、斯界では高い評価を受けていた。明治13年、病没。享年55歳であった。

  昌琢の妻フジは7人の子供を抱えて苦労したと伝えられている。しかし子供たちを立派に育て上げ、後に賢夫人と称されたのである。彼女は、明治19年に中村講義所で受洗した。一説では押川が授けたとされる。クニも母親の勧めで入信した。横浜共立女子神学校進学も、母親の勧めによるものと考えられる。

  昌為は漢学、医学、電気通信技術まで学んだが、病弱のためか定職には就かず、明治35年に他界した。昌為の妻タイは昌琢秘伝の「官許紫雲膏」を製造販売して、その後の鎌田家の家計を支えた。昌為の長男昌太郎も医師であった。

  熊治の父、土田貞山も医師であった。両家に医師同士の接点があったものか、定かではない。しかし熊治、クニの間では、キリスト教信仰の他に、「医業」が共通の話題としてあがったことは想像に難くない。

  熊治、クニの新婚家庭は、白石地区の伝道本部の感があった。クニ夫人は懸命に夫を支えて、伝道のよき内助者となった。夫人が学んだ共立女子神学校は「婦人伝道者の養成と伝道者のよき伴侶の育成」を目的とした。熊治にとって、理想の妻であった。

     
  鎌田昌琢  
 
鎌田昌琢
 
  明治32年は、1月1日の「初週祈●(祷の旧字体、示篇に壽)會」で始まった。そして3月20日には講義所(以下便宜上教会と記す)を古本町に移した。信者が増え手狭になったためであろう。

  ところが5月14日未明、大火が発生、5時間以上も燃え続け、町内の8割が灰燼(じんかい)に帰した。教会も土田家も罹(り)災したものと思われる。当時の教会記録では「大火の罹災見舞金信徒より七円五十銭、うち一円五十銭を日曜学校の生徒の家庭に送る」となっていることから、教会は当然罹災したと考えられる。残りの6円は教会の復旧に充てられたものであろう。

同年10月23日の記録に、「現在の教会敷地(三畝三歩)を百八十円で買収(リフォームド・ミッション名義)」とある。明らかにミッション資金による購入であった。「現在の教会敷地」とは、白石市大手町2の1にある今日の敷地を指すものであろうか。

  「リフォームド・ミッション」は、改革派教会系の在日宣教師団で構成されていた。宣教師のほとんどが東北学院、宮城学院の教師を兼ねていた。数年前、吉田亀太郎が中村教会堂建築時に、ミッションからの助成金捻出に苦労したことに比べて、白石教会への大金支出は、すんなりと決まった。熊治に対するミッションの期待と信頼を示す一例であろう。

  次回は吉田や熊治の属した「日本基督教會」、在日宣教師団(ミッション)等について記してみたい。


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