2010年 6月 17日 (木)

       

■ 〈古都の鐘〜ウイーンからの便り〉42 チャペック・鈴木理恵 演奏の舞台裏

     
  ベートーベンのメトロノーム、楽友協会の展覧会にて  
 
ベートーベンのメトロノーム、楽友協会の
展覧会にて
 
  演奏をする時に難しいと思うことのひとつに、日常から離れて音楽の世界に入ってゆく、ということがある。

  日々の生活を送るのにどうしても避けられない煩雑さをすべてシャットアウトして、その曲の中に行かなければ、音楽の力は出てこない。これがくせ者で、あそこに電話しなければいけないとか、洗濯物を干さなくちゃとか、あるいは次の和音なんだっけとか、指は取りあえず動いていても、雑念が頭をもたげてくる。指はベートーベンを弾いていても、頭の中はすずきりえ、下界にとどまったままだったりする。音は出てくるが、音楽は出てこない。

  友人が子供のころ見ていたテレビ番組に、部屋の中にたくさん飾ってある絵の中に入って行って冒険する物語というのがあったそうだけれど、演奏もそういうものだと思う。曲を通して何百年も前の時代にタイムスリップするようなところがある。

  昔フランスで勉強していたころは、メシアンを弾くのが必修みたいな風潮が周りにはあった。この敬虔な作曲家の曲に「エスプリ」というのがよく使われてあって、このエスプリは、あたまに聖という意味のサンがつく聖霊のことだが、学生たちはそれを、きょうの演奏はエスプリが下らなかったとか、試験までにエスプリが来れば良いけれどなどと、おもしろがって使っていたのである。

  今になって思うとそれはあながち全くの冗談でもなかった。音楽家はこのエスプリを呼ばなければ、芸術作品の持つ高みは現れず、はい、上手に弾けましたと、表面で終わってしまう。曲の存在意義はもっと深いところからきているだろう。

  もちろん単に指をくわえて待っているだけでは、エスプリなんてまず訪れはしないし、いろいろ経験を積むことで、逆に慣れっこになってしまって、初々しさとか、新鮮さとか、感受性が鈍くなってくるきらいもでてくる。

  その点、演劇などもかなり似ているのではないかと想像する。修練のなせる技と思うが、泣きたくない時に泣いたり、同じ戯曲を舞台で毎日のように演じなければならなかったり、自分を越えたところに自分の状態を持っていくことは、とても大変だ思う。

  わたしの場合だと、演奏会が近づいてくると、例えば当時の状況を伝える本を読んだり、絵を見たり、作曲家がどうしてこの曲を作ったのか、彼を取り巻く環境や内的必然をできるだけ感じ取れるように、曲の背景に特に時間を割いてゆく。何か音楽の力に呼び込まれるような、自分を詩的な状態に持っていく工夫をする。

  本番の直前は人にもあまり会わないようにしてひとり静かにしていたいというのが本音で、なぜかというと例の「エスプリ」を呼び込むために、頭を空っぽにして音楽のことに集中したいからである。

  長かった外国での女のひとり暮らしに妙に張っていた肩肘は、結婚していくらか緩んだと思うが、ひとりの時間は必然的に減ったので、鶴の恩返しではないけれど、自分の殻を脱いで音楽の機を織るのにはやや難しくなった。この時間と心のやりくりは目下の課題である。
  (ピアニスト)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします