2010年 6月 30日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉183 伊藤幸子 「ハルゼミ」

 春●(蝉の旧字体、はるぜみ)の書屋(しょおく)にあるを憩ひとす
                            亀井糸游
 
  何年ぶりに春蝉を聞いた。私のいちばん好きな6月、愛車を洗い八幡平へとアクセルを踏んだ。私の所からだと、旧松尾鉱山から樹海ラインへ90分もあれば踏破できる爽快な山岳道路だ。快晴の平日、タケノコ採りの車がそちこちに見えるが全山ひとり占めして心が弾む。残雪の中フキノトウもまだ若い。

  藤七温泉を経て松川温泉に下り、ウグイスの声があまりに美しいので車を降りた。すると渓谷一帯にこだまして、ワァーンと耳を聾する声が響いてくる。春蝉だ。それは教科書の蝉の声とは全く違い、この上なく張りつめた太棹の糸を間断なく奏でるような本能的な音だ。この大音響が私をある光景にひき戻した。

  ある日、夫と十和田、青森方面へ遠乗りしたときのこと、気のむくまま八甲田まで足をのばしたのだった。前岳、赤倉岳、井戸岳等の山々を地図に見て、視界よきドライブコースは快適だった。ほとんど上ってくる車はなく、やがて「雪中行軍遭難者銅像」の建つ田代周辺の丘陵地帯で車を止めた。

  ところが、そこで私はとんでもないふしぎなこわい体験をした。なんだか体がこわばって歩けない。車に酔ったのかなと思い、進もうとするのだが足が上がらない。そして私をとり囲むワァーンという地鳴りのような音。それがまっ黒な集団となって私の体につきまとう。緑色の小さな蝉だ。髪から肩から、目もあけられないほどの大群で襲ってくる。夫もあわてて追い払うが、小動物のすさまじいエネルギーに言葉を失った。集中して襲われたのは私だけ。車に戻ってから夫は「やっぱり生気に満ちた方に行くんだな」と笑ったが、その横顔は妙に寂しく、後味の悪い思いがした。

  夫は翌年の春蝉の声を聞くのは叶わず、また、信心のない者が霊山に入ると五体金縛りになって動けなくなると聞き一層恐くなった。

  昨日、私は書架に新田次郎著「八甲田山死の彷徨」の初版本を探したが見当たらず、町に出て文庫本を買い直した。もう80刷だ。明治35年1月23日、青森歩兵第五聯隊雪中行軍210名遭難、199名死亡の事実。文字が涙に曇る。あの日、八甲田からつれてきた一匹の春蝉は今も私の書屋(陋屋=ろうおく)で、孫にも発見されず眠っている。

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