わが背子は駒にまかせて来にけりと聞きに聞かする轡(くつわ)虫かな
和泉式部
先夜、来客があった。伸び放題の庭の草むらでは、さかんに秋の虫たちが鳴いている。車のエンジン音が聞こえると、あんなににぎやかだった合奏がピタリと止み、やがてかすかにガソリンの匂いを残して去ってゆくとまた鳴き始める。私は村の野暮用をすませて帰って行く白い車を見送りながらしばらく立っていた。
昼の猛暑をぬぐい去って、涼風と、空には望月のすこし欠けた明るい月光が照っている。「わが背子は駒にまかせて来にけり」か、と口ずさみ、ひとり笑った。千年の昔も今も、恋しい人を思い逢いたい気持ちは同じはず。夜半、愛馬のくつわを取って駆け来れば、手綱を結わえる間にもガチャガチャと、駒のくつわそのものの音のように、いちずに聞かせるクツワムシたちよ。男が女のもとに「通い婚」であったいにしえの邸宅には、馬止めの柵や馬繋ぎ石や水飲み場なども備え広大だったようだ。
平安朝の昔、藤原道長の娘、中宮彰子の局(つぼね)には紫式部をはじめ、才色兼備の女流達が今をときめく魅力的なサロンを形成していた。和泉式部もそこの名花のひとり。文才と美貌(ぼう)に恵まれ、のちの世までも恋多き女性といわれた。
「夢よりもはかなき世の中をなげきわびつつあかし暮らすほどに」という美しい書きだしの「和泉式部日記」には今読んでも魂のふるえるような女心が綴られる。そして「かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると」にこめられた激しくも哀しい恋。ともに冷泉院の皇子である兄、弾正宮(だんじょうのみや)と弟師宮(そちのみや)を愛してしまった経緯がある。
兄宮がはやりやまいで亡くなられたのは26歳、その一周忌がすぎたころの、式部の歌である。「橘(たちばな)の香に昔の人をしのぶより、今のほととぎすの声を聞きたい。はたして彼の人と同じ声であるかしら」と。かくて「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす」の弟宮もまた、5年後に逝ってしまう不運の人である。
「もの思へばさはの螢もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」「捨てはてんと思ふさへこそ悲しけれ君になれにしわが身と思へば」等名歌多数。いっそ出家をとも思うが「君に馴れにし身」が辛いと訴える和泉式部の日記や歌の筆力に、残暑に萎(な)えた身も蘇(よみがえ)るようだ。
(八幡平市、歌人)
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