盛岡タイムス Web News 2010年 11月 13日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉186 岡澤敏男 34年におよぶ壮大なプロジェクト

 ■34年に及ぶ壮大なプロジェクト

  綾織越前広信が中心となり掘削した用水路「越前堰は安土・桃山時代天正4年(1576年)に掘り始め天正13年に水を通し、江戸時代慶長15年(1610年)に完成した堰である」と『たきざわの今昔』(下斗米昭一著)にある。

  また『岩手県史』『雫石町史』編纂に名のある史家田中喜多美氏は「越前堰というものは、現在までに二筋知られている。一筋は仁佐瀬谷の西南部の水路で、〈尾入堰〉と称する西堰であり、一筋は同渓谷東北部の水路で、〈根堰〉と称する東堰である。この二筋の水路は、往古綾織越前という人が掘り、水を引いたので越前堰とも称している」(「天正年中の越前堰考」『岩手史学研究』第40号)と述べながら、史料を検索して水路掘削の時期の西堰と東堰の関連を考察し、なお不明部分があると指摘している。

  綾織広信は越前と号して綾織越前広信と称し、綾織越前または越前広信と呼ぶ場合もある。広信が雫石城主(斯波栓貞)に客座(軍事顧問として寄寓)し新城の要害用水の設計をした際に、その水源を岩手山ろくの葛根田川より分水引用し土樋をもって隠密に濠に水を引いたと伝承されている。そしてこの土木経験が越前堰策定につながったものとの考察がされている。

  いずれにしろ越前広信は、持籠(もっこ)森から流れ出る白川沢を水源として着目し、この白川沢に隣接する妻の神沢、栓木沢、林の沢、大沢、大堀沢、グンダリ沢などの細流をつなぎ黒沢川に合流させ分水引用する用水路(越前堰)を策定したのです。

  白川沢とは現在の網張温泉線の御神坂駐車場を網張温泉に向かった二本目の沢で、その源流は元岩手高原スキー場の東側にある標高1152bの山腹から流れ出ています。その山は無名の山だがふもとから眺めるとモッコリして見えるので土地で「もっこ森」と呼ぶのかも知れない。

  このような険しい岩手山中まで武将越前広信は白い愛馬に乗り越前堰の源流を探索したのです。このもっこ森付近の白川沢上流から一筋の用水堰が延々8里余も宇曲しながら流下して鵜飼村に至りその下流は平賀新田に達したのです。

  この越前堰によって380余町歩が灌漑(かんがい)され、その恩恵に浴する村は篠木・大沢・鵜飼・土淵・平賀など6カ村に及んでいるという。

  着工から完成まで34年の歳月を要した壮大な用水路プロジェクトに「越前広信が自分のお金や、穀物などの食糧を使って多くの人々に働いてもらい、山を崩し岩を砕いて工事をすすめた」(下斗米昭一)という。

  この工事を手伝った農民たちの日当や関連費用の総額は34年間で何万両に及んだものか。はたして広信にそんな財力があったのか。その財力は遠野における越前広信の所領地にあったと思われる。綾織村は1083石の知行高(寛永3年・南部藩文書)という裕福な領地だったといわれます。しかしその反面に広信は遠野阿曾沼公の同族武将として果たすべき義務があったらしい。

  慶長5年(1600年)の役に領主(阿曾沼広長)に従い最上郡に郷里綾織から父廣行とともに出陣したこともその一つ。そうした郷里に出仕をするたびに用水路工事がしばしば中断されたのでしょう。そして領主が最上出陣中に遠野に政変があり阿曾沼氏は慶長6年末に没落し、遠野十二郷は南部氏(利直)に併合されるという大変革に直面するのです。

  越前広信は遠野へ帰れずそのまま滝沢篠木村清雲院前に居住することになったとみられます。

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