盛岡タイムス Web News 2011年 7月 1日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春育んだ書簡群〜学友たちの手紙〉31 八重嶋勲
  荒唐無芸も此二於て極まる

 三十三間堂棟木の由来

荒唐無藝も此ニ於て極まる、柳の精が人の女房になって子まで設けたなど昔話を聞く様だ、此んなもんではしようなした、それもそれも恩返しと来るから恐れ入る、でもいいが後は子供はお母さんといって柳に取りつけば火が燃えるの別れを惜しみて材木(柳)が引けぬので子供が掛けるの此等実に甚だしい、これが併し九米八の十八番なそうなだが、藝評に至らば恐らくは一の非難を言ふものはなかろふ、柳は三十三間堂の棟にどうしても切られなければならぬと村の衆の風評とりとりなる独り煩悶苦痛する、憤然と立ちすくむその中に柳は切られて家の中柳の葉が飛ふで這入ったに驚き方一方ならずあはてる、怺へ兼ねて哭號するに吾れと自か身を浅さましく思ひ、つくづく感に入る、舊懐の情に叩かれて「どうせこの身は生きてゐられぬ……」とうって打ちまろび、伏しまろび、衰んと別れををしむ様如何にも切なく見えた、例の語尾の濁った白は什分に観者を引き入るヽかの一の力となった、料、床は天晴さすが此優なるかなと吾れを釣り込むだ、これらお柳の(九米八)事については一向に非難を指す一つの欠点をも見出しかぬる、併しこれ等折角の藝は院本のあまりにをかしきに散々になって仕舞ふ、残念なことである、九米八がこれが特長だの得意だ、十八番だといふのは悲しむべき事である、折角の藝も半分はそれが為め感はどうしても薄れるのである、

  白浪五人男

これは殆んと劇をなしておらぬ、只に五人男豪賊を一つに記したに過きぬ、派手だとか豪気だといふ位のものにして、少しの趣味少しの詩趣を解し兼ぬる詩としての價値、否詩趣をも掬すを得ざれば、既に劇として演ずる必要はない、こんなものは後世まで保存して置く必要はない、二十世紀の今日こんなものが日本の劇に演ぜらるゝと他所で聞かは、何と笑ふか知れぬ、少しの趣味少しの詩的な部分はない、引返し濱松屋の死を父に争ふ所を以って徴悪とか勧善とかとふのは一つの劣等な手段に過ぎない、殆んと当時代のこれは手段となって否規則法則の様になってゐたらしい、情ない次第である、要するに当時幼稚なる作者か思想に依って表顕せられた文字であるからで什分の價値とは云はれぬ、否一つの價値もない、これは当時人気に或は俳優に当込んで作ったもの(に)相違ない、こんなものか評にも及ふまい、
辨天小僧は事の外まづいもので恐らくはこれが第一の失敗であったろふと思ふ、只場所なれなどいふ丈け特長もなにもない、渋い所が成田屋を眞似たに過ぎず失敗の大失敗だ、要するに九米八が怠しても男はいかぬ、特長は没してあることにこんな素裸になってする事は怎(いかに)しても感心は出來ぬ、男も或る定(程)度迄では善としても天下無類といふ女役をすてゝ特長のない男形をやるといふ、そんな無定見な事もないかろふ、女形は眞に迫って眞情がこもっている愛嬌がある、どうしても眞実の場所と見受けらるゝのである、この外いふ事もあるが紙に制限があるからよしとして置く外便に更に出なほす、
一葉女史のい(え)らい事は感心仕り候、更に一葉についていふ所あるべきを期し申し候、只鏡花と似通ってゐると居るといふ事は前言しておく、但し或る一部分が哲学概論は心切に候、エマルソンを上田君の進めによって買って見たが、実に面白いは面白い、併し面倒でならぬ、召波の益々いらきをさとる、今思(ひ)して思出の記を讀む所だ、上田君を訪問した事については色々と面白いことかあるなれともう四匆目になりたから廃相おとがめはこわいでな、
作山がとんだ手紙を僕によこした、借金はたりだ元より彼にことはっておいたはず、龍州へやる銭さ(え)なくてやらぬでゐるにどんだ事をいってくる、面前で一つ怒鳴ってやろふと思ふがそれもならぬからよすとしても乱暴な奴だ、今度いたく責めつけなければならぬ、君へも貸した銭があるから僕に取ってくれ!て来た、どんた借金ぱたりで二、三日腹ランバイがニイクリカヘル様だった、君の方へ遊びにいったら怒鳴ってやってくれ給へ、実に不埒だ、あんな冷血なやつはあったもんちゃない、失敬きはまる、「土用休暇前にお前へことはったはづた」といってやってくれ給へ、
風邪にて臥床の中にてこんな乱暴かき、乱暴な文章、何卒御免被下度、こん度やる時は活字でもおして上げよう程かんにんしてたべ候、
君も手紙くれてもよさそうだと思って待ってゐた、何にも僕がやらんからやらぬといふでもあるまい、亘し来てからにするといふのか、何にしろ文通は御互ひたのしみだ(併し難儀なり)、よこしてくれ給へ。
    七月廿八日
土用休暇もその三分の一を過ごし申し候、碌々として一つも得るなし、噫々君如何
    菫舟老      キ(箕)人生
      机下

  【解説】前段は、下宿屋を急遽出なければならなくなって、その引っ越しの準備をしているようである。前年の明治33年春、猪川塾閉鎖により、何カ所か下宿屋を転々しているようである。この場合、行き場がなく、猪川静雄先生に、また泊めてもらいたいとお願いにいったが断られたようである。その様子を土用休みで彦部村に帰省中の長一に報告している。
  その次は、岩手山登山の様子を事細かに伝えている。
  そして、内丸座にかかった「九米八一座」の出し物について、一々劇評しており、なかなかに、手きびしくも、詳細、綿密、的確な劇評には、感心する。
  同年7月10日付の阿部秀三の書簡に「内丸坐(座の)九女(米)八の三十三間堂を見たか、お柳の動作申分なし見せたかった」という一節があり、猪川箕人は酷評しているが、阿部秀三は褒めている。それぞれ価値観の相違があって面白い。
  「召波の益々いらきをさとる」は黒柳召波。江戸時代の京都生まれの俳人、漢詩人。
  最後は、作山君から借金の返済を迫られ、逆に激怒し、貸主を悪し様に言っているのは、おかしく、面白い。当時の学生はこういうのが普通だったのであろう。後年、東京在学の野村長一への仕送りで、父長四郎が、散々お金の工面、金策をしたことがしのばれる。


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