盛岡タイムス Web News 2011年 7月 7日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉34 古水一雄 通巻第二十八冊 丁々記一

     
   
 
「通巻第二十八冊 丁々記一」
 
  「通巻第二十八冊 丁々記一」は、和紙に筆書きされていて、2月19日から4月27日までの日記がつづられている。題名の由来を春又春は、“伐木丁々ノ意”と述べている(3月12日の日記中)。
 
  さて、俳号の改名に勢いづいて盛んに作句に励み始めた春又春であったが、その勢いを駆って「杜陵吟社」の再興にも乗り出している。               杜陵吟社は、明治32年の秋頃に原抱琴(原敬のおい)の呼びかけにより統合してできた盛岡の新派の俳句会である。当時盛岡には雲軒を中心とする若声会と、盛岡中学生であった野村長一(後の胡堂)らのみどり会とがあった。

  同じ新派の俳句をやっているのだから一つにまとまったらどうか、と原抱琴にうながされて合流したのである。

  “杜陵吟社”の吟社名は最年長であった雲軒の命名によると伝えられている。最も多い時には29名を数える俳人を擁している。後には春又春の友人である内田秋皎や星山月洲も加わっているが、なぜか春又春の名前は見えない。おそらく春又春がこの時分には短歌に重きを置いていたことによるものであろう。(友人と杜陵短歌会をつくって活動していた)

  ところが、杜陵吟社の中心であった盛岡中学生たちが卒業とともに明治35年ごろから杜陵吟社を離れてしまったために衰退してしまっていたのである。

  碧梧桐を交えた句会で俳句の力量を認められた春又春は、杜陵吟社の再興を思い立ち、友人たちに声を掛けて自宅で句会を催すことにしたのである。
 
   (二月廿一日)
      杜陵吟社五子
       素茗子
   前置の句に句をすさむ余寒かな
       三柊子
   春禁酒の句ありて禁俳の句なきや
       秋皎子
   八大家文など読みつゝあらん火燵かな
       雲軒子
   吾れに示すべき句ありや春の寒さかな
       月秋子
   ゆたかなれ吾妹子の歌火燵の句
 
   (二月廿七日)
   田螺十句集清書し終り、雲軒より回す
   夜、時候の句碧梧桐宅に送る、日永八
   句、春宵廿一句、朧五句、春寒四句 
   〆丗八句バカリニテ、三句も抜かれな
   バ本望なり、一回少なくとも百句位送
   らんと思ふ、
 
   (三月廿二日)
  「俳星」余が一百句漸ク九句ノ活ヲ得タリ
   刪(けず)られし吾が句を思ふ春の宵
 
  「俳星」に掲載された春又春の俳句9句は、改号したあとすぐに送った100句から選ばれたものである。さらにその2日後「岩手日報」の日曜俳壇には杜陵吟社として送った田螺十句集の句が掲載された。春又春の句は3句 、雲軒の「釣日記」も出ていた。
 
  さらに朗報は4月22日にもたらされる。
 
   日本及び日本人、待チ焦レテ吾ガ頬ノ
   痩ヲ致す、サレド待チ焦レシ甲斐アル
   キ、日本俳句余ガ句七ヲ得タリ、初陣
   春又春吾ガ句茲ニ世ニ生ル、楽ナリ、
   自重〃〃、嘗テ句ニ苦シミ句ニ呆レテ
   之レヲ棄テムトモ思ヒタリキ、思ハザ
   リキ、這(これ)得意句
     春の宵絵反古ほしがる女かな
     推敲を灯に待つ癖や暮遅し
   初陣七句ヲ勝チ得タリ、基礎先ヅ一石
   ヲ置キ得タリ、自重々々、大成竊(ひ
   そ)カニ後年ヲ期ス、
 
  待望久しい全国誌「日本及び日本人」への掲載であった。春又春の名が全国に轟き渡るのである。大成するのはこれからだとしつつ、まずは基礎を築くことができたという喜びであふれている。
 
  その一方で、父の病状に重大な事態が迫っていたのであった。

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