盛岡タイムス Web News 2011年 7月 8日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春はぐくんだ書簡群〜学友たちの手紙〉32 八重嶋勲 気淋しきに又々愚書を投し候

 ■岩動露子

  55 はがき 明治34年8月7日付
 
宛 陸中紫波郡彦部村大巻 野村長一様
発 野辺地八幡町二〇 中野七六方 露子
挿雲君とここにしバらく自炊するつもりに有之候也
【解説】岩動露子からの葉書。野辺地に挿雲君と暫らく自炊生活をするという、簡単な文面である。挿雲君とはだれなのか、調べたが分らなかった。岩動露子は、盛岡中学校をこの年卒業、明治三十七年、東京外語仏語科に進むが、この場合、なぜ野辺地の地に生活したのかも分らない。
 
  ■阿部秀三

  56 巻紙 明治34年8月10日付
 
宛 紫波郡彦部村大巻 野村長一様
発 阿部秀三
拝啓九日付御手紙難有拝見仕候、実は目下の気淋しきに又々折返し愚書を投し候次第、御一讀被下度候、御帰郷否や御病氣にならせられ候趣、誠に御困り事と御察申上候、充分御休養之上御全快之程奉祈候、五山君は十日間之豫定にて帰郷候由、今日師範学校門前にて杏子君に出逢ひ同人之消息之一端を覗ひ申候、箕人君は出盛之翌日直ニ帰郷候由、稍々残り惜しき感有之候、杏子君は二三日前炎天之處へ出馬、昨日帰盛候由にて炎天は野辺地露子の處へ今日あたり参る趣きに候、
抱琴君には浦塩塞徳に伯父様と漫遊に出かけられ函館等を経て九月上旬當地に立寄らるゝとの事に候得者、病氣之方も定めし怠り候はんと芽出度居候、挿雲君は近き内に露子君之處へ参らるゝ由に候、
悟空之愛児は永き眠里に相成候由、実に痛ましき限りと存候、一年あまりも手紙之往復を相絶ち候得ば、自然絶交同然に相成居候故、突然手紙相送り候も好ましからす其侭に致置候、全体悟空を其當時見あやまり居候は、小生一生之不覚に候、あんな俗な人間か日本に又とあるまじく候(言稍暴に渡り候がこれは文学の趣味之上に付いていふ)、
月兎と青々との間は実に甚た面白からず候、青木の若旦那は元来小生きらひに候、宝舟は三百部にも至らずとは以て目下窮地にあるを察せらるべく候、青々は何處までも助けやるべく候、抱琴も月兎を非して居る様に候、露子も同様に候、然し挿雲は月兎派に候、
御病気御全快之上は何分早く御出盛なされ度候、此手紙御一覧被下候上、御返事被下候と被下間敷候と御勝手に有之候、只小生は淋しさのあまり日頃の思ひ居候部分を貴兄に洩し候ものに候、余は後便、
     十日         柊迂人
     菫舟兄
       座右
一天四海帰妙法
  日、真理也。

  【解説】五山、杏子、箕人、炎天、抱琴、挿雲、月兎、青々等の諸友の動向を伝えている。特に「抱琴君には浦(ウラ)塩塞徳(ジオストック)に伯父様と漫遊に出かけられ函館等を経て九月上旬當地に立寄らるゝとの事に候」は、原抱琴が伯父原敬に連れられ、凱旋丸でウラジオストクに行っているとのことである。

  「挿雲君は近き内に露子君之處へ参らるゝ由に候」とあり、前の岩動露子の葉書に、野辺地で「挿雲君とここにしバらく自炊するつもりに有之候也」と報じていることを裏付けている。岩動露子は、紫波郡赤石に住んでおり、岩動炎天は従弟であるが、事情あって後に兄弟となった人で、露子と同居している。

  「悟空之愛児は永き眠里に相成候由、実に痛ましき限りと存候」は、悟空の愛児が亡くなったことを悼んでいる。この人は、秋田俳句行脚の際に、能代の俳人島田悟空(五工)宅に往き帰り立ち寄り、五泊して以来の俳句仲間で、悟空が盛岡の下宿に来た際、お金がないのに精一杯の接待をして、翌日食べるものも無くなり、同宿五人が、誰かに送金が来るまで布団をかぶって寝込んでいたという。

  「宝舟は三百部にも至らずとは以て目下窮地にあるを察せらるべく候」は、「宝舟」という印刷物を発行し、その売行きが三百部に満たないといって嘆いているのである。

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