盛岡タイムス Web News 2011年 7月 27日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉239 伊藤幸子 和歌の家

 こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
                       権中納言定家
 
  和歌(うた)の家、藤原俊成の子。いうまでもなく「新古今集」「新勅撰集」また「小倉百人一首」の撰者。その作者の自撰歌で、古来人気の高い歌である。「淡路島松帆の浦」の歌枕にかけて「来ぬ人」を待つ心さわぎを表す。夕なぎのたえがたいむし暑さ、息苦しさのなか、たちのぼる藻塩を焼く煙のかがよいが「身もこがれつつ」にひたよせて私の大好きな歌。それにしても、こんな盛夏にかるたの歌とはと、自分の季節感覚にとまどっていたら、思いがけない訃報を拝見した。

  7月12日、平安・鎌倉時代の歌人、藤原俊成・定家を祖とする国の重要文化財冷泉家の、冷泉布美子さんが94歳でお亡くなりになった。大正5年7月17日生まれで、冷泉家24代為任(ためとう)夫人であり、昭和61年為任氏逝去後はずっと「時雨亭文庫」理事長をつとめられた。

  歌人道浦母都子さんの著書「聲のさざなみ」によれば布美子さんの「和歌の家」継承のいきさつが興味深い。22代冷泉為系(ためつぎ)氏の四女として生まれた布美子さんは、三人の姉上方同様他家に嫁ぐ身とばかり思っておられた。ところが兄上23代為臣さんが戦死され、冷泉家初めてのお婿さんを迎えての24代継承であった由。

  その描写がくだんの書に美しい。「終戦の翌年、2月1日、公家の西四辻(にしよつつじ)家の次男公順(きんまさ)氏と布美子さんは結婚の儀をあげた。公順氏は赤い袍(ほう)と冠、布美子さんは、大正天皇の御生母が、布美子さんの母恭子さんに下さった袿袴(けいこ)におすべらかしという有職(ゆうそく)による挙式だ。為臣さんを亡くされ悲嘆の父、為系氏はお二人の結婚を心から喜び、安心されたかのように翌年(昭和22年)不帰の人となられた」。

  冷泉家の当主は代々男性、しかも歌の精神は一子相伝との伝統を守り続けてこられた。それまでは御文庫の中にさえ入れなかった女性が布美子さんの代から和歌の家精神伝授の要となられ男系文化の歴史を変えられた。

  京都は同志社大学のかたわらに、800年の風雪に耐えて建つ冷泉家。今でも時折定家直筆の歌学書が発見されたり、一昨年は「冷泉家の和歌守展」が話題を呼んだりしている。私は定家というと「紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事に非ず」の文言を思う。治承4年(1180年)から書き始めた「明月記」に、19歳の定家の述懐である。源平合戦のさなかでも、自分は権力闘争とは無縁の、文の人であるという強い自覚がみてとれる。歴史は今に新しいと再確認の夏の宵である。
(八幡平市、歌人)


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