盛岡タイムス Web News 2011年 10月 22日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉234 岡澤敏男 仙北町の人殺し事件簿

 ■仙北町の人殺し事件簿

  その記事とは理助の冤罪に関するものではなかったが、裁判所の審理経過に理助の場合と相似するものがあったのです。

  事件の第一報が大正14年1月13日の岩手日報に報道され、それによると9日早朝に青物町から農事試験場に通う東北本線踏切の近くで変死体が発見され盛岡署が派遣した三浦警察医の検屍により死因を凍死とみたが、なお死体に不審な点が認められ凍死とも他殺とも判明つかず、新聞は「他殺か凍死か/疑問の屍体」と大きな見出しで報じています。

  翌日の記事は「解剖の結果/他殺と判明」と二段見出しで他殺説を取り上げ、その「嫌疑者は金貸の/息子で放蕩無頼漢」とサブタイトルで報じています。

  屍体の解剖は呉服町の佐藤医院にて検事立会いで執刀され、外傷はなかったが頭部切開の結果こめかみ部の骨折を発見し死因は頭部の強打による圧迫と検断したものらしい。

  被害者の身元は本宮村の岩館Sで、昨夜Sが鉈屋町の居酒屋で酩酊し居合わせた仲間とけんか口論になったことを数人の目撃者によって証言された。しかし仲裁が入り大した事もなくSは別れたという。

  そのけんかの相手として仙北町の金沢Kの名が浮んだ。Kは富裕な金沢家の五男で生業に就かぬ放蕩無頼の徒として数回起訴猶予の前科をもっていたという。

  居酒屋から酩酊したSは青物町の入り口付近でまたKと殴り合いとなり、それが死因につながったとみられるが、第二の殴り合いについては目撃者は居らず、またKはSとのけんかを終始否定したが警察は被疑者として留置してしまった。

  1月20日の記事の大見出しは「疑問の殺人事件/証拠収集困難で/事件は迷宮に…か」とあり「嫌疑者は目下刑務所に/拘禁中だがマダ起訴されない」と脇見出しで報じている。

  検察はKに前科持ちだから自白しなければ1年、2年の懲役では済まないぞと脅し、自白を強要して起訴したらしい。2月20日に開かれた第1回の公判には、証拠もなく起訴された〈仙北町殺人事件〉として耳目を集め女子師範学校4年生50名の見学もあり傍聴席はいっぱいで窓からのぞき込むほどにぎわいだったという。

  裁判長の訊問に被告Kは予審の取り調べで虚偽の自白をさせられたが、自分はSを殴った覚えはないと前言を取り消した。第3回公判(3月9日)も傍聴人があふれ数名の証人がK被告に有利な証言を行った。

  そして第4回公判(3月12日)も傍聴者は法廷の内外に200人も押しかけ、検事はK被告に2年6か月を求刑した。これに対して工藤(祐)弁護士が2時間余の雄弁を展開して被告の無罪を論述し、新聞は「迷宮に入った/仙北町の人殺し公判」と報じている。

  3月19日の第5回公判において樋口裁判長が事件発生後の経過を詳述しK被告に「無罪」を宣告し、その日の夕刊に「仙北町の人殺し事件/無罪の宣告を言い渡さる」という3段大見出しが踊っていました。

  この冤罪裁判について注目したのはK被告が無罪になるまで「3月囚へられ」たことが、妻の毒殺嫌疑で「われ三月囚へられにき」と回想する理助と重なっているからです。理助が冤罪に巻き込まれた事件の虚実は不明ながら、理助をめぐる冤罪事件を賢治が晩年の病床で虚構で発想するのは考えにくいことです。ただ大正11年〜14年の岩手日報の記事をマイクロフィルムで検索し、「塩魚の頭」を食べた妻女が「もだえ死」した事件の記事を見いだし得なかったのが心残りです。

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