盛岡タイムス Web News 2011年 11月 27日 (日)

       

■ 〈大震災私記〉58 田村剛一 凄絶な光景3

 車をさらに田の浜に向けて進めた。いとこの住んでいた早川という小さな集落に来て、家がそれこそ一軒も残っていないのに気づいた。ここも、犠牲者が多かった。いとこはどの道を逃げたのか。無事避難したとは聞いているが、いまだ会っていない。

  そこの防潮堤が、これまた無残。巨大なコンクリートの防潮堤が、細切れになって転がっている。底を横にした無残な姿。私の身長の3倍以上はゆうにありそう。5b以上の厚さの防潮堤がごろごろ転がっていた。

  そこからの道を少し上ると佐々木漁業部の事務所がある。その事務所も被害を受けていた。信じられないこと。

  そこから少し下ると防潮堤がある。その防潮堤の上から19人ばかりの人が津波を眺めていて、全員流されたことを後で聞いた。助かったのは、その中の一人。波で山に押し上げられた。目の前にフジのつるが伸びていた。それにしがみついて助かったという。

  この地区も明治29年の三陸大津波で大きな被害を受けた。集落が全滅したとも言われる。それで、集落を高台に移した。その高台の集落は残っていたが、その下に近年家が建つようになり、それらの家はことごとく流された。

  この集落も、山田の中心地区と同じように火災に遭っている。半壊で残った家はもちろん、ほとんど無傷であった高台の家も、この火災で全焼した所が少なくなかった。
  「火事さえなければ、俺の家は残ったのに」。そう言って、無念をにじませる知人もいた。

  ここの火事は山にも移り、その後には「集落全体が丸焼けになる」と覚悟した人たちは多かったという。幸いにも風の向きが変わり、また、自衛隊の空からの消火活動により、集落全滅は免れた。

  息子に車を走らせながら、異様に感じたことがあった。それは被災地に人影がまったくといってよいほどなかったからだ。見る人影といえば、がれき撤去の重機を動かす人と、人を探す自衛隊員の姿だけ。知っている人がいれば声をかけようと思ったが、被災知人と会うことはなかった。

  被災された人たちの多くは、遠く離れた四十八坂の青少年の家に避難し、車がないため出てくることができなかったのだろう。

  同時に、津波に流されたり、火事で焼かれたりした家の跡を見るのはつらかったようだ。

  もう一つ、すべてを失い、ぼうぜん自失の状態に陥っていた人もいたに違いない。
  想像を絶する大津波。この凄絶な光景。山田以上に隣の大槌はひどいと聞いている。教え子たちはどうしているのか。それが気になってきた。
(山田町)

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