盛岡タイムス Web News 2011年 11月 30日 (水)

       

■ 〈大震災私記〉60 田村剛一 隣町大槌1

 「大槌は、山田以上の被害なそうだ」。そんな声が耳に入っていた。ラジオでも、大槌町役場が、津波の被害を受け、町長をはじめ多くの役場職員が犠牲になったことを報じていた。町長を失っては、復旧も復興も大変だろうなと思った。

  本来なら、大槌のことはよそごとに当たるのだが、私にはそうはいかない理由があった。私の教員生活38年間のうち、大槌高校には10年勤めた。延べ七つの学校を渡り歩いたが、大槌高校は一番長い。

  しかも、この学校で担任したクラスは、1年から3年生までクラス替えもなく、そのまま持ち上がった。だから、自分の子どもと同じ。

  昭和50年代の初めは、いわゆる「荒れる学校」の時代である。私はそう思わなかったが、中には教師が手を焼いた生徒たちもある。

  「あなたのクラスの教科は受け持たない」。そう言う教師も出てきた。修学旅行の京都で地元高校生と乱闘事件を起こしかかった生徒たちもある。何とか、この生徒たちを守り、一人の退学者も出さずに済んだ。

  卒業後、クラスの生徒同士が結婚することになり、その仲人役を頼まれた。同級生同士ということもあり、多くの同級生が出席した。

  祝宴に入ると、ひな壇に男子生徒が全員集合し、妻に向かって深々と頭を下げた。

  「私たちは、先生のおかげで卒業できた者たちです。ありがとうございました」

  教え子たちから、こんな言葉を聞いたのは初めて。その言葉を聞いて、大人になったと思った。

  あの時の教え子たちは、大槌にも大勢残っているはず。果たして、全員生きてくれているだろうか。そんな思いで大槌に向かった。浪板まで来て、あっと驚いた。浪板のきれいな砂浜がまったくなくなっていたからだ。その砂浜に彩りを添えていた松林も無残にもなぎ倒されていたのだ。この風景を見て、大槌も大変なことになっているなと思った。

  浪板から吉里吉里へ。ここも、高台にある家を残して壊滅状態。井上ひさしの小説「吉里吉里人」で一世を風靡(ふうび)したミニ独立国「吉里吉里国」は、この津波で完全に滅亡した。

  安渡トンネルを越えた。目の前に現れた光景を見て言葉を失った。10年間通って、見なれた風景はまったくそこにはなかったからだ。トンネルを出て、左手に折れ、安渡に向かった。一瞬、大槌川が目に入った。JRの鉄橋がない。橋脚だけが、わずかに水面から顔を出し、川に架かっていた鉄橋が跡形もなく消え失せていたのだ。もし、列車が鉄橋の上を走っている時、津波に襲われていたら、さらに犠牲者は増えただろう。そう思った。
  (山田町)


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