盛岡タイムス Web News 2012年 1月 5日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉84 田村剛一 失われた風景5

 失われた風景で最大のものは、何といっても町が消えてしまったことだ。町役場は残ったものの、商店街は一軒も残らず全て失われた。町を代表する漁業関係施設、漁協の建物、魚市場、加工場、養殖作業場。これらの建物は鉄骨の骨組みだけ残し、無残な姿をさらしているだけだった。

  湾内には、カキ、ホタテの養殖イカダが幾何学模様に並び、美しい海の風景を形づくっていたが、その養殖イカダも、ほとんど目にすることはできなかった。

  そして、何よりも私の心をむなしくさせたのは、水面を行き交う船の姿もなければ、忙しげに動き回る人の姿もないことだ。完全に漁師町の風景は失われたのだ。

  東京から町に支援物資を届けに来た、山田町出身の若者を町が一望できる役場の屋上に案内した時、「先生、私のふるさとがなくなりました」と言って、その若者は涙を流しながら私にしがみついてきた。その気持ちは痛いほど分かった。震災前の町の風景は決して戻ることはないからだ。

  私は退職後3年間、毎日のように魚市場に行き、その日の水揚げを記録して、魚歳時記として一冊にまとめた。幸いにも、その本は水浸しになったが、私の手元に残った。あの頃のような人でにぎわう魚市場風景が果たして戻るのかどうか。

  そんな思いをしながら魚市場に向かった。いたるところに立ち入り禁止の立札が立ち、ロープが張りめぐらされていたが、人影は全くなかった。漁協関係者は今、何をしているのだろうか。漁師たちはなぜ、海に出て来ないのか。まったく静まり返った海岸風景を見て、そう思った。

  しかし、それは独り善がりの考えであることがすぐに分かった。漁協関係者も、漁師もみな被災者。多くは避難所生活をしていて、その日、その日の生活でいっぱいだったのだ。

  町を歩いていて思ったことがある。震災までは、どんな小さな道でも自由に歩くことができた。町内にある建物はほとんど知っていた。

  ところが、町から建物がなくなった今、道が分からなくなってしまった。それは、私だけではない。自分の家がどこにあったのかさえ、すぐに見つけられなかったという人がいる。「道に迷ったよ」という人も何人かいた。私の妹たちも、東京、山形からやって来たが、2家族とも道に迷った。目印の建物がなくなった町は迷路そのものなのだ。

  そして、人の記憶のあいまいさ。町の記憶を取り戻そうと思っても、その記憶がよみがえってこない。それが、震災ショックなのか、年のせいなのか判断できずに苦しんでいる。
(山田町)

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