盛岡タイムス Web News 2012年 3月 10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉253 岡澤敏男

  ■時局の風圧と共働村塾

  松田甚次郎が「最上共働村塾」を開いた昭和7年とは、関東軍の手で3月1日「満洲国建国」が宣言され9月15日に正式に国会が「満洲国」を承認した年であり、陸海軍青年将校等が犬養老首相を射殺するという五・一五事件を起した年でもあった。そして農村では昼食をもたずに登校する欠食児童が全国で20万人を突破する深刻な農業恐慌のさなかにあったのです。

  8年には日本は満洲国問題で国際連盟から脱退し、9年には言論・思想・教育の統制が強化されて文部省に思想局が設置され10年には「国体明徴」を訓令したのです。

  国体明徴とは「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇天祖ノ神勅ヲ奉ジテ永遠ニコレヲ統持シ給フ。コレ我ガ万古不易ノ国体ナリ」の精神だと言われます。こうして教学(教育と学問)も国体、日本精神にもとづくべきとの基本が確認されました。

  11年には二・二六事件のクーデターが決行されるが、その翌年12年の5月には軍国主義教育を推進する教育審議会が設置され、7月には蘆溝橋事件を起点として9年にも及ぶ日中戦争に突入するのです。

  このような状況の中で教育審議会の教育改革の方針は「皇国の道」を修め国家に役立つ人物の「練成」に向けられていった。

  例えば石川県立松任農学校の校訓は「忠孝至誠」「勤勉力行」「農業報国」であり、長野県立伊那農学校の行事は@朝会 毎朝講堂に集合し宮城遥拝、明治天皇御製朗読、校訓朗読、朝礼A全校閲兵分列 毎月1日(興亜奉公日)22日(御親閲拝受記念日)には始業前運動場に於て国歌斉唱。閲兵分列を行うB武道朝稽古C吟詠訓練「生気歌」を初め皇国精神の溢れる漢詩を吟詠D忠霊殿奉仕E神饌田奉仕献穀F全校会食 毎月一回全校職員生徒は握飯を持参し上伊那護国神社に参拝し境内で大団円を作り会食を行い軍歌詩吟を合唱するG国防資金づくりH防空訓練│などが行われ、神秘的な天皇至上主義と超国家主義が農本主義と結んだ戦時体制下の農業教育の「教育改革」の正体を見せている。

  また10年4月公布された「青年学校令」が14年には義務制化に改正され、16歳〜20歳までの青年男子は総て青年学校在学者として組織されて行ったのです。

  教育審議会による兵力の基礎として「皇国青年」を養成し「練成」をはかる農学校、青年学校とは別に、「村の中堅的人物」の養成を目的とした農村塾風の教育機関が全国で54校も存在していたが、それはどのような運命をたどったのか。大正末期〜昭和9年に創立された当初は「皇国教学」らしい教科は見当たらないが、12年以降は教育審議会路線に強制的に収束されていったとみられます。たぶん甚次郎の最上共働村塾とて例外であり得なかったのでしょう。

  昭和16年1月、甚次郎は『村塾建設の記』(実業之日本社)を上梓し塾の生活と精神も「皇国本来の負けざる魂の〈体当り〉であらねばならない」としながらも宮沢賢治師を「不死の塾長」と称び、「師は野にも山にも安息の中にも活動の中にも天地とともにいますのである。我等は師と共に起き、師と共に歌ひ働き得る」「そこに総ての建設も創造もある。われらは世界のまことの幸福をたづねばならない…求道はすでに道である」と、あたかも〈隠れキリスタン〉のマリア様のように〈賢治精神〉を「塾の真の柱」としていることを間接的に述べているのです。

 ■松田甚次郎著『村塾建設の記』(「村塾の生活と精神」より抜粋)

  「厳寒の朝でも真夏の朝でも、山の冷たい水を浴びるのである。…一心一念になつて禊祓ひをなすのである。しかし私はこれ等を命令的にやらすのではない。けれども皆一年間決行している」「次に心身爽やかになつて東天に向つて精神修養の朗誦をなし、次に国旗掲揚君が代斉唱、その他精神歌或は塾歌、祝詞等を唱へて、それから神祀を参拝黙祷」し朝の行が終わる。 「作業実習は、冬期は午後で夏期は終日であるが…作業を通じて皇国農民の精神を鍛練しなければならぬと思ふのである。…農業とは天地美化の業であることも土工や大工やを為して初めて知るものである。」

  「一日或は半日の労働を終つて塾舎に帰れば、誇らしげな顔をして今日の炊事は良く行つたと語らひながら、田園交響楽(ベェトーベン作曲)がレコード演奏されて居るのである。疲労も忘れて入浴し、旨しい夕餉に労働を感謝して、又明日への祈りを捧げ戴くたのしさは、言葉によつて言い表すことが出来ない。」

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