盛岡タイムス Web News 2012年 3月 15日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉136 田村剛一 山田と津波3

 私が、家屋に被害をもたらす津波を体験したのは、昭和35年(1960年)のチリ地震津波である。その後、昭和43年、十勝沖地震も体験したが、この時は、岩手県沿岸では、家屋被害はほとんどなかった。

  チリ地震津波の時には、偶然、山田に来ていて津波を体験することになった。この数日前に大学の研修旅行があって、秋田に来ていた。当時、世紀の大事業といわれた八郎潟の干拓工事を見学するのが研修旅行の目的。研修旅行は秋田で解散になったが、「ここまで来たので、三陸に回ってみよう」という学生が出てきて、私が案内することになった。

  5人ばかりの一行が、宮古経由で山田に着いたのが5月22日。この日、浄土ケ浜や山田湾を案内。山田のわが家に一泊して、翌日金沢へ向かって帰って行った。この一行と入れ違いのような形で、やって来たのが一人いる。その一人のために、私は家に残ることになった。

  翌日5月24日早朝、にわかに外が騒しくなった。母親が起きて、外の様子を眺めると、「津波らしい」といって高台に急ぐ人たちでいっぱい。そこで、私たちも起こされた「津波だ」というと、友人は「見に行こう」といって、海の方に下りて行こうとした。これは危ない、そう思い、友人の腕を取ると、海の見える近くの高台に避難した。その時には、町の中心部を走る国道45号線は、水浸し。浮きやたる、かごなどが流れ込んでいた。

  やがて引き潮、バリバリと音をたてて、建物が壊れ、それが波にさらわれて行く。津波の恐ろしさは、この引き潮にあるのだなと思った。潮はどんどん引き、今まで見たことのない岩礁が海底に現れた。あの時の不気味な光景は見た人でなければわからない。引き潮がやむと、再び津波が押し寄せてくる。それを30分間おきくらいに何度か繰り返しているうちに、それが規則正しく繰り返しているのを知り、海岸に下りて行った。寄せては逃げ、引いては進む。そんな波遊びみたいなことができたのだ。

  この津波で、漁船や沿岸に近い人家は、大きな被害を受けた。山田町では織笠地区が壊滅的な被害を受けたが、幸い犠牲者は一人も出なかった。大船渡市を中心に、岩手県では82人の犠牲者が出たのに…。

  チリ地震津波後に4・5b(海抜6b)の防潮堤が建設されたが、これは、チリ地震津波の高さに対応したもの。山田は、そのぐらいの波の高さだったからだ。

  その後、津波警報や注意報は、何度も発令になったが、大津波は発生しなかった。チリ地震津波体験者の中には「津波、恐るに足らず」そうした慢心が生まれたことも否定できない。
(山田町)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします