盛岡タイムス Web News 2012年4月 4日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉275 伊藤幸子 巌流島

 一代の五尺に足らず絵巻物
                      吉川雉子郎
 
  天気が不安定で寒い春、吉川英治の「宮本武蔵」を読んでいる。平成初期に発刊の吉川文庫80巻で、どの巻をとりだしてもつい惹きこまれ、今回もとうとう巌流島まできてしまった。

  「慶長十七年四月に入ったばかりの頃である。泉州の堺港からは、その日も赤間ヶ関へ通う船が旅客や荷を容(い)れていた…」武蔵の使命は、細川家の長岡佐渡の斡旋(あっせん)で、佐々木小次郎と積年の試合を果たすことであった。

  場所は、御城下の地では混雑がまぬかれまいとの見越(みこし)から、海上がよい、島がよいとなって、赤間ヶ関と門司ヶ関との間の小島|穴門(あなと)ヶ島とも、またの名を船島ともいう所と決定した。この辺りの海上は、平家物語の古戦場とも重なり、潮の満ち引きが重要な鍵となる。

  4月12日、武蔵は赤間ヶ関の廻船問屋小林太郎左衛門宅に身を寄せ、翌日はあるじと、船島まで供をする佐助の二人に遺す絵を描き始める。長いときをかけて、佐助には柳に白鷺(さぎ)の図を、あるじには破墨(はぼく)山水の一枚を仕上げ、ようやく決戦場へと出発した。

  13日、大分時刻が遅れている。それでも武蔵は小舟の中で不要になっている櫂(かい)を削り、小次郎の「物干竿」より一尺長い四尺一寸八分の木刀を作り上げる。さらに懐紙をとりだして幾十本かのこよりを縒(よ)り「紙縒襷(こよりだすき)」にたもとをくくった。その身じまいの潔さは胸のすく思い。

  日は中天に近かった。「武蔵、怯(おく)れたか、策か。約束の刻限はとく過ぎてもう一刻の余もたつ。われは最前からこれに待ちかねていた」と言い放った言葉の下に、小次郎は鐺(こじり)を背へ高く上げて小脇の大刀物干竿をぱっと抜き放つと同時に左の手に残った刀の鞘(さや)を浪間に投げ捨てた。ここに天下の名台詞「小次郎、負けたり!」と相手の肺腑を刺して一声、「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。鞘は汝(うぬ)の天命を投げ捨てた|」

  長い気持ちのする瞬間、櫂の木剣は正眼に持たれ、物干竿の長剣は上段に返っていた。武蔵は一朶(いちだ)の雲を見ていた。今は雲と自身のけじめを、はっきり意識にもどしていた。ついに戻らなかった剣士は巌流佐々木小次郎。

  こう読んでくると、64歳で没したとされる武蔵と、明治25年生まれの吉川英治が10代から辛苦を連ねて32歳で作家として自立した生いたちと重なって見えたりもする。平成の春4月13日の決闘の小島は晴れているだろうか。昭和35年文化勲章を受章。雉子郎名で俳句川柳も多作。昭和37年、70歳にて逝去。
(八幡平市、歌人)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします