盛岡タイムス Web News 2012年4月 10日 (火)

       

■ 〈続幕末維新随想〉5 和井内和夫 戦争と農民

 ■農民はまさに踏んだり蹴ったり

  いつの時代でも、また洋の東西を問わず、戦争の最大の被害者は戦場になった地域の住民であることは間違いない。

  東北戊辰戦争においても、秋田県南地方は、南から攻め入った庄内・仙台連合軍と秋田軍を含む薩長など西軍との戦場になっているが、農家からの兵糧の徴発は両軍によって行われている。

  それだけではなく、戦闘員あるいは軍夫として多くの農民が徴発されている。

  当時盛岡藩領であった現在の秋田県鹿角地方でも、盛岡軍の秋田領侵攻に伴い千人ほどの農民・猟師などが盛岡軍に徴用されている。

  それも軍夫(作業員)だけではなく戦闘員として最前線にも駆り出されており、盛岡軍の主戦場であった鹿角戦線における盛岡軍の戦死者の半数近くは、正規の藩士以外のそれら現地徴発の農民などである。

  その他戦闘によって住居が焼かれたり、兵糧の拠出を断ったために家に火をつけられたり、戦争に負けた方が退却するに際して、その途中の民家を焼き払ったことも伝えられている。ただし、これは日本に限らないことで、ナポレオンの登場以後軍の主戦力が歩兵になったことと、その軽装化に伴う機動戦にはつきものだと言われている。

  徳川時代は全国的に飢饉(ききん)が多かったが、特に東北地方はしばしば大飢饉に見舞われている。藩ごとに見ても餓死者数万人という数も珍しくはない。

  その餓死者の大半は農民であった。藩主の居住する城下などでは藩あるいは大商人などによる多少の救恤があったが、地方ではそれはまれで、街道の道端には餓死した者の死体が数多く遺棄されていたことが、当時の旅行者の記録に残されている。

  徳川幕府の関係者の言として「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほどとれる」というのがあるが、これは間違いなく当時の為政者の本音であろう。

  またテレビ時代劇に登場する“名君”のせりふによく出てくる言葉に「百姓は国の宝」というのがある。耳に心地よい言葉であるが、支配者から見て絶対必要な耕作者という意味での宝であり、実際に幕藩時代の大名が農民の逃散を防止するためにいろいろと手を尽くしていることでもそれは分かる。

  また建前ではあろうが、戦争はそのために平時は無為徒食(武芸に励んでいた者もあろうが)している武職(藩士)がやるもので、百姓は米を作っていればいいのだと称して威張っていながら、いざ戦争が始まると百姓を強制動員し、しかも最前線に立たせていることは前述のとおりである。

  これは正邪とか理不尽とか以前の問題で、まさに百姓は踏んだり蹴ったりである。全国的に見ると戊辰戦争中にも百姓たちの抵抗運動があったようであるが、多少でも改革に結びついたものは例外的である。


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