盛岡タイムス Web News 2012年4月 16日 (月)

       

■ 〈賢治の「よーさん」とは〉上 向井田郁子 養蚕イノベーションの今昔を

 賢治の「よーさん」から養蚕イノベーションへのテーマの下にかつて盛岡高等農林学校時代の教材掛図展が22日まで盛岡市上田3丁目の岩大図書館1階ギャラリーで開かれている。賢治の「よーさん」というのは、盛岡高等農林学校の卒業生で文学者の宮沢賢治が小学校時代に書いた作文【よーさん】から採ったという。

  会場中央には今、新しい蚕として注目を浴びている天蚕、同じ緑色をしていても天蚕よりも形が一回り近く小さい野蚕、白い家蚕などの標本も置いてある。

  壁には蚕が繭を形成するまでの成長過程の図、繭の作りなどが原色で描かれた掛図、繭から生糸を取り出す作業や蚕に桑の葉を与えて育てる作業小屋の様子を描いた図まで数点の掛図が展示されている。

  宮沢賢治が盛岡高等農林学校に在学していた時代、生糸は日本の重要輸出品目だったという。石川県から群馬県、栃木県を経て横浜に至るまでの主要道路は「日本のシルクロード」といわれた時期があった。

  岩手でも県内各地に織物産業が配置され、県の殖産振興の一翼を担っていた。しかし、この絹産業が日本に活況を呈したのも第2次世界大戦前まで。

  1941年に日本がシルクの有力な輸出先であるアメリカと戦争状態に入ると、アメリカではシルクの代替商品としてナイロンを産出するようになり、それが戦後も日本の絹産業を絶えず圧迫するようになった。

  アメリカで発明され、日本からのシルクの輸入ストップに耐えたナイロンはかつての敵国日本にも輸入されるようになり、日本女性たちの足元もナイロン靴下に覆われるようになった。戦後、強くなったものとして女性と靴下が並び称されるようになったのはそこからくるのか?

  しかし、世の中が次第に戦争の傷跡から立ち直り、暮らしが豊かになるに従い、日本の絹の良さが見直され始め、和服の需要も潜在的には年を追って高まってきたが、一度、市場から締め出された絹産業が昔の活況を取り戻すのは容易ではない。

  それを思わせる展示が、蚕に桑の葉を与える作業であり繭から生糸を取り出す作業であり生糸を紡ぎ、織る作業である。

  蚕を養うため、桑の葉を細かく刻み与える仕事は24時間絶えず、繭から生糸を取り出し、織り紡ぐ仕事も相当の激務で、作業場で疲れ果て、仕事をしながら作業所で倒れ伏す女性も多かった。生糸の輸出が盛んだったころにはよく「女工哀史」などという小説が書かれたものだった。

  今、岩大図書館ギャラリーで展示中の資料もそうした昔のつらかった女性の労働を思い出させるのか、「養蚕イノベーション」という元気のよいテーマに対して、「そういうけど、養蚕って厳しいんだよ」という女性も少なくはない。

  「だからイノベーションだろう」と思って見ていたら、私自身は中国産シルクに半ばはまっていた時代を思い出した。

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