盛岡タイムス Web News 2012年4月 18日 (水)

       

■ 〈日々つれづれ〉117 三浦勲夫

 普段自分は古紙の裏紙を利用して文の下書きをする。だから古紙は大事にしている。だが今回、妻に言われて自分の古紙を整理して捨て始めた。学校別、場所別に授業道具を紙バッグに入れているが、紙バッグが木製の収納ケースからはみ出して、板の間の床にまで置かれている。その数ざっと10個はある。バッグには教科書、ノート、配布資料の残部、CD、DVDなどが入っている。バッグの中身以外にも古紙はある。

  個人情報に関するものは慎重に破棄し、他の紙は紐で束ねて町内のストックヤードに運ぶ。他の家からもさまざまな古紙が持ち込まれていて、資源として再利用される日を待っている。整理作業は数日かかるだろう。きょうはまだ2日目だ。

  家に戻って作業を続ける。作業の気晴らしにCD音楽をかける。古い軽音楽、英語オールド・ポップスである。古さからいえば、オールド・ポップスは古紙よりずっと古いが、世界中の人々に愛され親しまれて、捨てられることもなく聴かれている。自分もそんな懐メロを飽きずに、折りに触れては聴く。「三つ子の魂」みたいな郷愁を感じる。古紙とは違って、音楽は耳に触れても、手では触れられない。(ここで洒落心が動く。「手で触れられない文化財」とは英語で「無形文化財」のことだなどと思いながら聴く。)

  古い曲を聴いているとそれが流行した当時、あるいは自分が若かった頃を思い出す。何しろ歌手が若い。なじみがなかった曲でも、どういうわけか懐かしい。自分などあの時代の、ごくごくわずかの部分にしかコミットしていないが、過ごしたあの頃全体が懐かしい。その懐かしさが、古紙に対する個人的な懐かしさにも少々乗り移ると作業の手元が遅れる。感傷には浸っていられないと整理作業を続ける。

  古紙の方は自分が直接コミットした授業などの資料である。当然、懐かしさが違う。個人的で具体的な対人関係がある。しかし、皮肉なことに、だからといって無期限に保管できず、別れを告げなければならない。人間の記憶力ははかない。ストックヤードに出すために、古紙を改めて眺めるまでは、古い人間関係のほとんどは忘れられていたことに気づく。いまさら少々思い出したからと言って、その記憶がこれから死ぬまで続くべくもない。「老い支度」という厳粛な言葉が今度は頭をかすめる。

  もっと現実的に考えて、再生紙の原料としてリサイクルする方が理にかなう。かくして古紙整理は年度末の重要課題となる。古紙を整理して、「新たな紙」をバッグに入れられるよう新年度に備える。「資源リサイクル」が古紙整理の第一目的であるなら、第二目的は「新年度の仕事準備」、第三目的は「老い支度」となろうか。

  というわけで、自分の古紙を始末するのは他人ではなく、自分でなければならない。本当に捨てていいものかどうか、この判断は他人には任せられない。その結果、手元にさらに保管される物も出る。紙に文字を書くという行為は軽々に扱ってはならない。残したくない物は自分で捨てる。しかし残すべきなのに作られなかった記録もある。「議事録」が残されておらず大問題となったのは、東電福島第一原発事故後の対応を協議した政府関係者たちの各種の会議だった。
  (岩手大学名誉教授・元放送大学客員教授)

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