盛岡タイムス Web News 2012年4月 19日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〉54 古水一雄 読我書記(通巻44冊)その2

 春又春の身辺にはこの時期特段変わったことはないが、時々布教のために訪れてくる平野牧師や荒浜君とキリスト教を巡って激論を交わし、祖母に何の喧嘩だったとたしなめられたりしている。春又春にとってキリスト教はまったく理解できないものなのだ。
 
  さて、春又春の二人の友人の様子であるが、まず佐々木君は7月5日に訪問した時ですでに重篤な病状を示していた。8月3日の午前中盛岡病院で受診した際に佐々木君の病室によった。その病状は“只死ヲ伸バシ居ルニ過ギズト、両肺已ニ破棄一薬ノ投ズ可キナシ”といった状態なのであった。

  8月12日武蔵君と約束を交わしていた花巻の台温泉に向かう。途中武蔵君宅に顔を出し、雨の中泥に車輪を取られながら馬車で台温泉に着く。あいにく客室が満杯で空き部屋は一室もなかったが、宿に無理を言って相部屋を見つけてもらい何とか宿泊がかなったのだ。夜になって不意に武蔵君もやってくる。翌朝5時半に台温泉を出立して7時に花巻駅に着き、9時に花巻駅から盛岡に向かったが、家に着くと佐々木君の死亡の報がもたらされていたのだった。
 
   帰家、佐々木君ノ訃ヲ聞ク、
   今朝早ク病院カラ電話ガアツテ余ノ居
   所問合ワセガアツタソウナ、逢イタガ
   ツタソーナ、電報ガ花巻ニイツタロウ
   トノコト、死ヌ少シ前非常ニ苦シンダ
   ソーナ、夕雨沛然トシテ至ル、
 
   (八月十三日)
   八時起床、夜来腰痛頻リニ寝ガヘリス、
   為メニ一身労シテ縄ノヤウダ、労レテ
   動ケヌ時ノヤウニ腰ガ痛ム、痛ムトイ
   フヨリ壓迫ヲ感ズル、
   朝飯、食欲無シ、強エテ一椀ス、飯後
   ろ爐ニ坐ス、身労ス起ツニ懶(ものう)
   シ、九時力(つと)メテ佐々木君ノ跡
   ヲ逐ウヤウン兆候ジャナイカト思ハレ
   タ、開運橋デ俥ニ乗ル、(中略)
 
  腰の圧痛で眼れなかったための疲労を押して佐々木君の遺体が安置されている病院に向かうが、半分ほどの道のりでへとへとになり開運橋からは人力車に乗る。(佐々木君の自宅は夕顔瀬橋の近くにあり、病院もその付近にあったものと思われる。)
     
  茶畑児童公園(通称ラカン公園)の十六羅漢像  
 
茶畑児童公園(通称ラカン公園)の十六羅漢像
 
 
   お母サンニ逢フ、ドウモお気ノ毒デタ
   マラナイ、姉サンニモ逢フ、悔ミ言一
   ツ出来ナイ、次イデ客ガ四・五人見エ
   タ、ミンナガ話スヲ只聞イテ居ル、生
   前ノコトヤラ病院ノコトヤラ、五日バ
   カリ以来熱モ下リお粥モクフタソー

  ナ、火滅セントシテ明ルトハコノコト
   ダロウ、(中略)
 
   病室ニミンナト焼香シタ、坐にカエツ
   テ白イ単衣ヲ被ツタ屍ニ対シタ、モウ
   三千里外ノ人ダ、友タリ朋タルモアハ
   ケナイモノダ、涙ガ落チタ、手ヲ眼ニ
   フサイデ居ルト姉ナ人ハ余ヲ見テカス
   ゝ泣キシテ居ル、昨日アレガ折角待ツ
   テ居タノハコノお方デスト叔父ノ人ニ
   イフテ泣イテ居ル、叔父ナ人ハ十六羅
   漢寺ノ住職ダ、七十幾ツノ老体ヲ長ラ
   エテ今又行年二十五ノ甥に別レタノ

  ダ、有ヲ無ト観ジタル余ハ涙ノ人タル
   ニ何ノ恥カ無理ガアロウ、生前ハイロ
   イロトカ余ニ向フテイフテ居ル余ハタ
   マラナクナツタ、強エテ涙ヲフルツテ
   坐ヲ起ツタ、姉ナ人モ母ナ人モ眼ヲシ
   バタゝイテ送ツテ出タ、
 
  病室には母と姉と叔父とがいて悲嘆に暮れている。叔父は十六羅漢寺の住職だという。十六羅漢像は、江戸時代の盛岡藩四大飢饉の餓死者を弔うために、天保8(1837)年から13年をかけて嘉永2(1849)年に祇陀寺の末寺である宋龍寺に竣工したものである。ところが宋龍寺は明治維新の際に祇陀寺に併合されて廃寺となっていて、おまけに堂宇も明治17年の大火で灰燼に帰しているので、十六羅漢寺とは祇陀寺を指すことになる。
  その祇陀寺の住職を務める70歳を超えた老僧は25歳で旅立った甥にどのような思いをかけているのだろうか、ましてや母や姉の悲しみを思うと居たたまれなくなって病室を出たのである。



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