盛岡タイムス Web News 2012年4月 22日 (日)

       

■ 〈大震災私記〉160 田村剛一 ああ山田線

 私が、山田線を初めて利用したのは、山田線が復旧した年の翌年の昭和30年1月、北海道へ帰る時であった。

  私が1人で北海道に向かったのは、昭和29年の1月。その時は、盛岡−宮古間は、台風被害から復旧していなかったので、釜石回りで花巻に出て、そこから青森に向かった。

  山田線は、北上山地を縫うようにして、山や谷を走っている。それだけ、トンネルや鉄橋が多い。

  昭和22年のカサリン台風、23年のアイオン台風であちこちの橋は落ち、線路は流されて盛岡−宮古間の山田線は不通になった。この山田線が完全復旧したのは昭和29年11月、何と7年もの長きにわたって不通になっていたのだ。この記録は、日本の鉄道の不通期間として最長記録なのではないか。

  初めて山田線に乗って驚いた。長いトンネルが多い。この時代は、蒸気機関車が主力。2重連、3重連の蒸気機関車が列車を引いたり押したりして坂道をのぼる “シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポ、こんな坂なにくそ、シュッシュッポッポ…”今でも、あの時の、蒸気機関車の吐く息が忘れられない。

  機関車がトンネルに入るたびに、黒いもうもうとした煙が車内に吹き込む。盛岡に着いた時には、どの顔も真っ黒。そこから “カラス列車”の異名がついた。

  忘れられないことがあった。もう少しで盛岡というとき、突然列車がバックし始めた。驚いて立ち上がると、前の客が「なんでもないよ」といって、私を制しスイッチバックのことを教えてくれた。このスイッチバックは、今はない。山田線の有名はことごとく消えた。

  1960年のチリ地震津波で、一時、山田線が不通になった。おかげで、私の金沢行きが数日遅れた。

  蒸気機関車は、子供たちにも喜ばれ、釜石の鵜住居にいた頃、朝晩、長男、二男と自転車に乗って、機関車を見るため駅に通った。この黒い煙を吐きながら走る蒸気機関車の時代が、山田線の全盛だったような気がする。

  蒸気機関車が廃止になり、ディーゼル車に変わったのが、1970年(昭和45)。この頃から、列車を利用する乗客は減り始めた。釜石の民族移動が始まったのもこの頃である。

  今回の大震災で、宮古−釜石間は全線不通になり、現在、宮古−山田間は県北バス、山田−釜石間は県交通バスによって運行されている。

  JRは、釜石−宮古間のバス運行を打診し始めているが、打診する前に、釜石−宮古間に、JRの直通バスを走らせるべきだ。

  岩泉線もなかなか復旧しない。岩泉線切りを手始めに、山田線切りを考えているようで気になる。

  “昔、山田線があったずな”といわれないよう、首長たちに頑張ってもらいたい。
  (山田町在住)

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