盛岡タイムス Web News 2012年 5月 1日 (火)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉1 菊池孝育 はじめに

 明治維新直後から新天地を求めて、多くの日本人が海外に船出した。大半はハワイのサトウキビ農場の契約労働者であったし、北アメリカ西海岸の農漁業従事者であった。みな海外で一旗揚げて、故郷に錦を飾ろうという大望を抱いて海を渡った。今日で言う「アメリカン・ドリーム」を夢見ていたのである。

  このころ、「海外移民」と言う語が頻繁に使われていたが、最近は、「海外移住」の方が多いようだ。
  「移住」の意味は、「開拓・植民などのために国内の他の地、あるいは国外の地に移り住むこと」であり、「移民」よりは広い意味に使われるようである。ちなみに、「移民」は「労働に従事することを目的に外国に移り住むこと」の意である。

  明治26(1893)年、政府は「移民保護規則」を制定した。その第一条で移民を「本法ニ移住民ト称スルハ永住スルト否トヲ問ハス総テ労働ヲ目的トシテ外国ニ渡航スル者ヲ謂(い)フ」と定義している。この「規則」は明治29年の「移民保護法」の施行をもって廃止された。制定の立役者は当時、外務省通商局長、同事務次官であった盛岡出身の原敬であった。以降、同法で言う「移住民」は一般的に「移民」との呼称で定着する。

  ここに「永住スルト否トヲ問ハス」との文言を挿入しなければならなかったのは、当時の外国への移 住者は「出稼ぎ移民」がほとんどであり、帰国を前提に渡航したからである。実態を踏まえた立法措置であったことが分かる。「移民保護法」の制定の経緯は、改めて述べるつもりなので、ここでは移民の定義だけに留めておきたい。

  日本人の海外移住は明治元(1868)年ハワイに渡った「元年者」と称される153名の契約移民が最初であった。以来、ハワイはもちろん、アメリカ大陸西海岸に続々と移住する。当時の移民の多くは、過酷な労働条件と人種差別から、こと志と異なる生活を強いられていた。あまつさえ、現地政府の法的保護を受けられないばかりか、日本政府からも「棄民」扱いされていた。多くの海外移住者はこの「移民保護規則」が制定されるまで、二十数年も放置されてきたのである。

  日本からカナダへの組織的・合法的移住は、ハワイやアメリカ本土への移住に比べて、数も少なく時期も遅い。

  慶応3(1867)年、カナダは英領北アメリカ三植民地を統合して連邦を形成した。国家としての体裁を整えたのである。日本ではこの年の10月に、徳川慶喜が大政を奉還した。そして翌年明治への改元となる。いうなれば、カナダと日本はほぼ同時期に近代国家としてスタートした。移住民を送り出す方も、受け入れる方も、十分態勢が整っていなかったのである。しかも、日本人受け入れの窓口となるべきブリティッシュ・コロンビア州(以下BC州)は明治4(1871)年になって、初めてカナダ連邦(以下カナダ)に加入した。それまでは、アメリカ合衆国(以下合衆国)の一州となるか、カナダに所属すべきか、帰趨を明らかにしていなかった。一説によると、カナダ政府は大陸横断鉄道を建設することを餌にして、BC州をつり上げたと言われる。従って、明治初年に数人の日本人がBC州に住んでいたとされるが、氏名も場所も判然としない。合衆国西岸を北上した人たちであったといわれるが、風聞の域を出ない。

  記録上、カナダ移住民第一号は明治10(1877)年、長崎から密航した船大工永野万蔵となっている。


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