盛岡タイムス Web News 2012年 5月 13日 (日)

       

■  〈もりおかの残像〉46 澤田昭博 「北文化住宅」

     
  @「北文化小路」(大正??年頃)田口カメラ提供  
 

@「北文化小路」(大正14年頃)田口カメラ提供

 

 マリオスの最上階や岩山展望台から盛岡市街地を俯瞰すると、都市化とともに高層ビルが林立していることがよくわかります。特にも高層マンションの数は年々増加し、市の調査によると平成22年度末の分譲マンション数は174棟を数えるといいます。今日はこうした共同住宅の元祖ともいえる盛岡初の市営文化住宅を取り上げます。誰が、なぜ「文化」住宅と呼んだのでしょうか?

  元盛岡市立図書館長小森一民編の『盛岡略年表 大正期』の社会欄に、「大正11年上田字下台・上田字庚申長根に市営住宅を新築貸付開始」とあります。市立図書館では平成22年9月「あのころの盛岡」という写真展も開催しており、資料を求めて訪ねました。司書の吉田恵里さんから16_映画フィルム「岩手の輝き」という大正12年の盛岡市内の様子を記録した無声映画があり、連休中の5月6日もりおか歴史文化館で全編上映会があると教えられました。さっそくこの特別講座「歴文館シネマ」に行き、オリジナル映像全編で大正時代の盛岡へタイムスリップしてきました。無声映画ですから太田幸夫さん(75)が活動弁士のいでたちでやってくれました。まさに大正時代さながらの雰囲気を堪能できました。なんとこの連載で取り上げた石割桜や盛岡停車場などが、動画で次々と登場するたびに満員の観客は懐かしんでおりました。

 映画の中で、原敬が「日本一の市長」と絶賛した北田親氏(ちかうじ)が登場します。弁士は、「明治末から昭和初頭まで5期19年間にわたって市政を担当した」とつけ加えます。後で調べると北田市長の業績は、仁王・城南小の移転、市立盛岡商業・櫻城小の創立、盛岡市立病院・県立図書館の開設、中津川大洪水後の護岸工事、工兵第八大隊・騎兵第三旅団の誘致、高松の池の公園化に尽力するなど枚挙にいとまがありません。高松の池畔には北田の銅像があります。そして、今回の市営住宅の建設もその一つです。この新興住宅街を市の東西南北につくり、「文化小路」と命名し祝賀したのも北田市長でした。

 最初の建設は加賀野春木場の「東文化小路」で、大正11年に竣工しています。当初35戸、翌年には住民の利便を考えた魚菜・雑貨を取り扱う商店住宅3戸も完成します。大正13年には、馬場小路に46戸の南文化小路、大正14年には西下台の西文化小路と上田字庚申長根の北文化小路に14戸(写真@)、建築された住宅はすべて平屋です。写真@手前の道路が現在のバス通りで、右手が高松の池側、左手が高松神社側になります。中央の通りが「北文化小路」で、地図と異なります。右手前の住宅跡が、現在の「清鮨」。市営住宅ですから建坪20坪、1戸当たり4室、家賃15円や敷金50円はとても高い金額です。当時の新聞記事の見出しに「上田高松神社前 市営住宅抽選500人に2戸」とあり、11月18日からうれしい引っ越しが始まったことを写真入りで報道しています。

 高松第一町内会長の鈴木孝男さん(79)は、この「北文化住宅」のすぐ隣で生まれ、写真Aのように文化住宅の子どもたちと一緒に遊び育ったと言います。当時の住宅はすべて解体され姿を消してしまいましたが、鈴木さんの記憶の中でははっきり残像をとどめていました。まず、「文化住宅」とは、スレート瓦葺の家で、外便所が当たり前の時代に便所と台所が家の中にあり、小さな庭ができるスペースを持つ家だったといいます。古くから住んでいる上田茶屋住民からすれば羨望の意味を込めた言い方で「住宅」の人たちと呼んでいたそうです。ただ建設当初はまだ水道はなく、家と家の間にある井戸水を共同使用していました。水道が入ったのは昭和9年以降だといいます。

 「住宅」の子どもたちと遊び、それぞれの家に出入りしたので、間取りもはっきり分かると図面に書いてくれました。文化小路の両端に2戸建て4棟、その間に1戸建て6棟の計14戸で、その間取りは道路に面して左右対称的になっています。入居者は、石川栄助・横田幸八岩手師範の教授、南部家ゆかりの市役所課長、市立商業の先生、小学校校長、渋民村村長、釜石鉱山技師、国鉄職員等など錚々たる人たちでした。家族はどこの家も兄弟4から5人、家族構成は6〜7人で、市役所職員の南部さんの家だけ当時としては珍しい電話があり「文化住宅」らしいものでした。

 秋季大演習があった昭和11年頃の記憶では、兵隊さんが上田高松へ分散してやってきたと言います。文化住宅の各家庭の台所を兵隊さんに開放し、班ごとに副食をつくっていたと言います。兵隊さんは銃を×印に組み、夜たきぎをたいて野営演習をするという強烈な印象が残っていると回想していました。また、戦時中写真@の道路手前には、防空壕があったと言います。階段を付け深さ1・8メートルもあり、子どもたちが集まったりしたという。

 こうした文化住宅も老朽化し、昭和40年代には建て替えられ、60年代でまだ1軒残っていたようですが、時代とともに建物も住むひともすっかり変わり、写真そのものもなかなか入手することができませんでした。

 現在、高松地区は盛岡の典型的な住宅地域を形成しております。すぐ隣には名勝高松の池という自然環境に恵まれているだけでなく、岩手大学・市立図書館・盛岡放送局・上田公民館・中央病院などの文教・医療施設にも恵まれた最良の住宅地です。しかし、もともとこの地域は、畑とアシの生える湿地帯でしたが、北田市長時代の市街地拡張政策に基づいて造られた市営の「北文化住宅」がきっかけとなり、今日の発展につながっています。今では地元の住民といえども「北文化小路」の名を知る人は少なく、地図のみがしっかりこの歴史を物語っております。


 

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