盛岡タイムス Web News 2012年 5月 28日 (月)

       

■  〈もりおかの残像〉47 澤田昭博 横川省三の銅像

     
  @「横川省三の銅像」(昭和6年ころ)澤井敬一氏提供  
  @「横川省三の銅像」(昭和6年ころ)澤井敬一氏提供  

 盛岡の街かどには、啄木・賢治など多くの彫刻が自然と調和し、街並みにアクセントを添えていることから「彫刻の街もりおか」と言うこともできます。今回は、高松の池に存在した「横川省三の銅像」にスポットを当てます。

  屋外銅像というスタイルは、明治に西洋から流入し、金沢兼六園の日本武尊像が1880年で第1号とされています。初期の代表例は、上野の西郷隆盛像、皇居前の楠木正成像など、さらに忠勤の象徴として二宮金次郎像が津々浦々の学校に広がりました。盛岡で最初の銅像は南部中尉銅像(明治41年)ですが、神庭山の「横川省三像」も昭和6年建立しました。写真@から80年を経た現在、「台座」と中央の「六烈士の碑」が、周囲の大きくなった木立に囲まれ、岩手山の雄姿はすっかり見えなくなりました。

     
  A「三陸海嘯視察手帖」(明治29年)盛岡先人記念館提供  
   A「三陸海嘯視察手帖」(明治29年)盛岡先人記念館提供  

  盛岡先人記念館で顕彰されている横川省三といっても、今では多く語られることもなくなりました。しかし、盛岡の池野藤兵衛がこつこつと調査し、関係の写真300枚以上も入手しまとめた『明治の青春横川省三』(昭和55発行)などで彼の生涯をたどると、国際化の今日ならいざ知らず明治時代に世界を駆け巡った波乱万丈な生きざまに、多くの人は必ずや魂を揺さぶられるはずです。

  南部藩士の三田村家に生まれ、本名は勇治。 のち和賀郡東和町の横川家の養子となり横川勇治。徴兵の関係から戸籍上だけで山田勇治と名乗る時もあります。さらに獄中で読んだ『荘子』に“日に三度己を省みる”の言葉を見つけ、省三と改名したという。明治13年開学当初の公立岩手中学(現盛岡一高)の英文科で学び、盛岡一高の同窓生名簿の最初のページに彼の名が登場します。

  横川の生涯は、学校の教員・自由民権運動家・東京朝日新聞社の記者。この間東京スカイツリーのある花の隅田川に架かる言問橋から小短艇にのり千島探検の旅に出て「短艇遠征随行」を、日清戦争では従軍記者として軍艦「吉野」に乗り込み「大海戦記」を連載し大好評を得ています。また、明治29年の三陸大津波では特派員として翌々日には現地に急行しその惨状を報じています。彼が記録した黒革の手帳(写真A)「三陸海嘯視察手帖」が盛岡先人記念館にあります。田ア農巳学芸員は、最近の先人記念館だより48号でこの資料についても詳細に顕彰しています。

  新聞社を退社後は、サンフランシスコに渡り日刊紙を創刊。しかし、妻危篤のため帰国するも、1週間後には亡くなっています。この頃一條牧夫らと撮影したのが写真Bです。初公開の写真提供者の一條八平太さんによれば、詳細は分からないが親戚で自由民権運動の鈴木舎定の関係者ではないかと。帰国途中ハワイに立ち寄り日本移民の実情を知り、妻死去の後、再度ハワイに渡航、人種差別や邦人ストライキの調停など移民事業に業績をのこしています。

     
  B「横川省三と一條牧夫」(明治33年)一條八平太氏提供  
  B「横川省三と一條牧夫」(明治33年)一條八平太氏提供  


松島宗衛著『烈士横川省三』銅像建設会発行(昭和3年)や大島與吉著『爆破行秘史』(昭和9年)など蔵書家の澤井敬一さんは、銅像が建設された直後、城南小学校2年の遠足でこの地を訪れている。中津川で拾い集めた石4個に、自分の名前を墨で一文字ずつ親に書いてもらい、ポケットに入れ台座の周りに皆で置いたといいます。何のためだったか不明だが、おそらくは弔いのためではないかという。また、写真Cは、銅像の近くに住む袴田茂さんのものです。父作衛門さんが兵役に出ていた小学1年生の昭和12年、銅像の前に阿部・千葉・袴田出征3家族が集まり撮影したものだという。 在郷軍人の旗があり、ここで何をしたものか小さい頃なので定かでないという。

  桜の名勝高松の池を公園化したのは、北田親氏市長でした。漢詩や和歌・都都逸をたしなむ北田の作品に「年毎に咲くや池畔のさくら花今は吉野に劣らざりけり」というのがあります。ただ、「桜花ノ名所ハ忠ト桜ト離ルベカラザル」考えから、天下の名所吉野に比して劣るのが「忠魂桜花」であることから、この地に銅像を建立している。建設地を「神苑ニシテ又偉人傑士ノ英魂ノ鎮スヘキ霊庭ナリ因テ此丘ヲ神庭山ト命名ス」と記している。完成後には「花の春大和錦を人問わば吉野の外に高松の池」と詠って、銅像建立の半年後に72 歳で死去されております。

  北田盛岡市長などが発起人となり建設された「銅像建設趣意書」や「資金募集規定」をみると、横川省三の功績を永久に記念するため銅像を建設し、その費用は一般有志の者の寄付金で行う。小学生1名3銭以上、中学生10銭、高等科以上20銭、一般寄付は5円以上などと定め、総工費4万5千円を集めました。寄付者に対しては、銅像写真印刷物1枚を、高額寄付者には金額に応じて銅像大写真・鋳鉄肖像掛額・鋳鉄銅像模型を贈呈しています。

     
  C「横川省三像と出征家族」(昭和??年)袴田茂氏提供  
  C「横川省三像と出征家族」(昭和14年)袴田茂氏提供  


  戦時中物資不足のため銅像も応召となり、対象となった全国の9236もの銅像が姿を消しました。横川省三像の原型は、現在北山報恩寺の五百羅漢堂の隣に展示されています。一時盛岡市役所前に飾った記録もあるが、なぜ報恩寺なのか?

  盛岡市教育委員会歴史文化課大沼信忠さんに調べてもらいました。銅像の原型は、彫刻家堀江尚志の傑作、鋳金は高橋萬治です。北田市長は南部別邸に東京から講師を招聘し、南部鋳造研究所を創設しています。美術館建設前に、銅像原型は美術品としてどこかに保存すべきと言う市長の考えから残ったようです。報恩寺の展示場外看板は、「高橋萬治鋳金原型堂」となっています。台座を入れての高さ8b以上、銅像だけの高さ3・3bは、巨大彫刻と言うかその迫力に圧倒されます。

  東京のど真ん中、六本木ヒルズに近い麻布に、今でも「横川省三記念公園」がありその由来を案内しています。一方、盛岡の神庭山にある銅像跡を訪ねても、主人を失った台座と六烈士の碑があるのみで、案内板など一切ありませんでした。  


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