盛岡タイムス Web News 2012年 6月 5日 (火)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉6 菊池孝育 杉村濬の赫々(かっかく)たる経歴1

 嘉永元(1848)年、南部藩士杉村収蔵(秀三)、ナカの次男として盛岡で生まれた。明治維新のちょうど20年前である。藩校作人館に学び、10代後半には助教を務めた。

  慶応4(1868)年、秋田(戊申)戦争に従軍。南部藩の降伏により終戦。明治3(1870)年、作人館に出仕、撃剣小教示となる。師範代の一人であったのであろう。

  明治4(1871)年、作人館の閉鎖にともない、失職して上京、島田篁村(重禮)の雙桂精舎に入門、後に塾頭を務めた。

  明治7(1874)年、征台の役に従軍、現地で台湾都督府に出仕。翌年、致仕。

  明治11(1878)年、横浜毎日新聞の論説記者となり、しばしば台湾、朝鮮問題について論策を草したとされる。

  台湾から撤収してから横浜毎日に入社するまで、ほぼ3年の空白がある。この間、雙桂精舎で漢学を講じながら、時局問題についての独自の交友関係を築いていたらしい。

  杉村は盛岡の作人館時代から、撃剣と漢学和算に優れ、藩校で頭角を現したことを考えると文武両道に秀でた人物であったようだ。

  明治13(1880)年、外務省御用掛として入省。釜山領事館勤務となる。程なく外務省書記生に任じられ、本省通商局勤務に呼び戻される。

  明治15(1882)年4月7日、京城公使館勤務を命じられる。朝鮮渡航前に南部藩士長嶺忠司三女ヨシと婚姻。時に濬34歳、ヨシ15歳であった。

  南部藩では杉村家も長嶺家も、それほど高禄ではない。むしろ中堅そこそこではなかったか。家格も同等に近い。しかし長嶺忠司は人物であった。明治2年、版籍奉還後の盛岡藩の知事に南部利恭が任命され、同年10月、忠司は藩庁の重役「権少参事兼会計権督務」に任じられた。

  杉村は新妻を東京に残して朝鮮に赴任した。同年7月、朝鮮では反日運動とも言うべき「壬午事変」、いわゆる日本公使館襲撃という重大事件が勃発した。杉村は花房義質公使と共に、仁川経由で海上に逃れ、英国軍艦に救助されて長崎に難を避けたのである。この間、花房公使のボディーガード役を務めたとされる。

  後日、花房公使は日本政府の全権代表として、杉村と共に仁川を再訪、朝鮮側と交渉して事変の事後処理である「済物補条約」(8月)をまとめた。この際、杉村の果たした役割は大きく、同年10月には京城公使館副領事に任じられ、仁川勤務を命じられたのである。

  杉村は壬午事変への対処とその事後処理の外交交渉から、大きな教訓を学んだ。その一は外国での人心収攬(しゅうらん)の方法であり、その二は、移住に当たっての現地への適応・同化の必要性である。

  当時の朝鮮における日本人居留民は、朝鮮人に対して尊大な態度で接し、反感を買っていたとされる。.居留民だけではない。日本政府も李氏朝鮮に対して高圧的姿勢で臨んでいたのである。この辺に事変の遠因があったと杉村は感じ取っていた。


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