盛岡タイムス Web News 2012年 6月 9日 (土)

       

■  〈賢治の置土産〉266 岡澤敏男 宮沢賢治詩碑に分骨

 ■宮沢賢治詩碑に分骨

  岩手県の小学校教師だった吉田六太郎氏(元宮沢賢治の会会長)は、生前の甚次郎とは頻繁な文通に結ばれた同志的友人の一人で、甚次郎が他界した翌年(昭和19年)の3月、追悼誌『義農松田甚次郎先生』を独力で編集・発行している。宮沢清六と甚次郎との最終書簡、遺影と遺墨(絶詠)、賢治の精神歌と「雨ニモマケズ」の詩をかかげ、甚次郎の最後稿(二十六夜、水掛け精神)、略年譜、最上共働村塾歌を収録し、また小野武夫の追悼文、20名の弔詞と全国から寄せられた107名の追悼文をも肉眼でやっと読めるくらいの細字でガリ切りした37ページにわたる慟哭(どうこく)の冊子でした。

  この中で小野武夫は「今から言うても及ばないことではあるが、松田君の様な土の人に対して日本の社会は余りに理解がなさ過ぎた。男子一人が一家の支柱として働く事でさえ骨の折れるのに世間は冷酷にも同君を農村文筆人として壇上の講師として挙用し否、酷用したのである。同君が単に自家農業経営の余暇を割いて塾教育に当る位ならまだよかったが、昼は農園に働き、夜は筆を執って新聞、雑誌、著書に精根を傾け、又東西南北に旅行して講演に回るが如きは、普通の精力家には到底堪え得ることがない。こうして重荷が同君の健康に重圧を加えて遂に夭折を余儀なくさせたのである。(中略)同君に籍すに尚二十年の歳月を以ってしたならば同君の事業は各方面に一層大きな影響を及したであろう。この点に於て、熱の人、智の人、行の人として松田君が、三十五歳を一期として此の世を去ったことを私は心より悼むのである…」と告別しています。

     
  「碑前に於ける〈分骨式〉」昭和18年10月=『和光』(松田甚次郎三十七回忌追悼文集)より  
  「碑前に於ける〈分骨式〉」昭和18年10月=『和光』(松田甚次郎三十七回忌追悼文集)より  

  また葬儀1カ月後の18年9月5日、部落会と最上の会が共催した追悼会で宮沢清六さんは「私共の燈火であり、舟筏であり、源泉であったあなたが、突然この世界から去られまして、天と称ばれる世界においでになられましたことは、私どもをまったく驚愕させ、いまなお激しい悲しみの中にあります。あなたは私どもに働くことの楽しみや、まことの道を示されましたから一番最後に、あなたの選ばれました「名作選」の

   “たよりになるのは
    くらかけつづきの   雪ばかり”
という詩をあなた自身のからだでもって解説して下さったのでありました。

  正しく語り、正しく行い、正しく念じ、正しく進まれたあなたの御生涯の立派さ、堅く道を信じて疑いと悩みを遮り、偏に道を念じて邪の想を破られたあなたの勇猛心、内に菩薩の行を深く秘して、外には方便のために種々の相を現ぜられました荘厳さ。まさしくあなたの御生涯は菩薩道でありました。厳しいあなたの御訓戒を身に浴びて、私共もまた各々に与えられましたいろいろの正しい道を求めて、正しく進もうと決心しています。

  今日の追悼の会にあたりまして、我が農村を、わが大日本国を、いよいよ強く守護せられ、われらを正しく指導せられますように、再びあなたに祈念し奉ります。」と弔辞を述べました。

  花巻賢治の会は、恩師賢治のそばに自分の遺骨を埋めてほしいという甚次郎の遺志を、宮沢家と相談のうえ、その分骨を羅須地人協会跡の賢治詩碑の横に昭和18年10月に埋葬しました。ともに土に還った恩師と甚次郎は、現在も永遠の時間に生きているのです。




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